縄文から古墳時代までとは? わかりやすく解説

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縄文から古墳時代まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 23:34 UTC 版)

千葉県の歴史」の記事における「縄文から古墳時代まで」の解説

古代海岸線 大賀ハス古代ハス香取神宮 縄文時代遺跡としては、貝塚がよく知られている。縄文時代貝塚日本各地に約2300所 を数え関東地方には、約1000か所が集中している。特に東京湾周辺は、貝塚宝庫呼ばれ、約600か所が密集しており、千葉県東京湾域、利根川流域台地には644か所 ほどの遺跡見られる千葉市にある加曽利貝塚が有名で、千葉市若葉区台地には、加曽利貝塚博物館建っており、発掘品のほか、野外施設で貝の堆積状態を観察することができる。また、縄文遺跡落合遺跡東京大学検見川総合運動場)から発掘されハスの実発芽成功し大賀ハス古代ハス)と呼ばれ世界中株分けされた。 県内では、成田市荒海貝塚から縄文から弥生時代移り変わる頃の籾殻痕がついた土器が見つかっており、イネ栽培が行われていたと推定されている。ただ、千葉県内ではこれまで台地上の発掘調査が多いこともあって、水田跡はまだ見つかっていない。農耕社会に入ると、『ムラ』の形態変化しこれまでの採集経済代わり生産経済展開されていく。この過程の中で環濠集落出現するが、千葉県では1979年昭和54年)から行われた佐倉市六崎大崎台遺跡の発掘発見されている。遺跡台地にあり、周辺低地には、水田広がり、そこでは技術的に完成され農業営まれていたと推測されている。環濠集落は、政治的施設生産工房を府置した政治的軍事的な城塞集落」で、佐賀県吉野ヶ里遺跡は、前者数十倍の規模があり、陸橋門柱・柵列や物見櫓が見つかっている。また、環濠内には弥生墳丘墓祭祀施設備わっていたことがわかっている。 弥生時代末期になると六崎大崎台遺跡環濠消滅しムラ景観一変する台地の北に大型住居伴ったムラ作られ、南には墳墓有する大型方形周溝墓作られた。こうした変化は、墓がムラの共通空間として認識されるようになったこと示唆している。ムラ首長あり方変化し地方豪族誕生社会変動過程新たな墓が出現するようになり、古墳時代に至る。 関東では、関西より100年遅れて2世紀から3世紀頃まで、弥生時代となる。房総古代文化は、黒潮による南西日本との文化交流影響見られることから、俗に黒潮文化」と呼ばれ地域文化風習(例:漁法建築様式等)などにその影響見られる古墳時代房総半島は、「捄国」(ふさのくに古くは捄=麻がよく育ったことに由来、「総」は後世当て字)と呼ばれた。『古語拾遺』によると、神代時代古代豪族忌部氏の祖である天富命阿波徳島県)から黒潮乗って渡来、麻を栽培して成功した肥沃な大地捄国で、忌部斎部)の一部居住地には、阿波名を取って安房としたのが起源とされる。これら房総三国一括する語が「吾妻」である。『記紀神話では、日本武尊説話起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、元々は当地神話であった物を取り込んだ可能性がある。安房国造任命に際しては、出雲国造紀国造とともに別の任官方式取られ忌部氏氏神とされる安房大神安房神社)は、8世紀前半までは、東国では鹿島神に次ぐ扱いで、香取神上回っていたとされるまた、常陸国風土記によれば阿波忌部氏続き多氏神八井耳命末裔肥後国造の一族)や中臣氏上総国到来開拓行いながら常陸国勢力伸ばし中臣片岡連が氏神として鹿島神宮建立したとされる因みに平安時代から近代にかけて「神宮」の称号呼ばれていたのは、伊勢神宮鹿島神宮香取神宮三社のみである。 県内にある古墳時代初期遺跡としては、市原市神戸4号墳・5号墳始め各地前方後円墳出現する直前首長墓が確認されている。また、市原市稲荷台1号古墳から出土した「王賜銘」鉄剣からは房総におけるヤマト王権影響力見られる。『先代旧事本紀』「国造本紀によれば、成務朝に阿波国造長狭国造須恵国造馬来田国造菊麻国造伊甚国造上海上国造武社国造が、応神朝に下海上国造千葉国造印波国造置かれとされる。 県域は香取海周辺集中する古墳郡の分布からも分かるように、古来より海上交通通じて発達しており、東国中でも政治的にヤマト王権との交流深かったことから前方後円墳の数が全国的にも多い。1990年平成2年時点8665基の古墳横穴が4083基が県内確認されており、古墳の数全国第4位を占める。このうち100m超えるものは14基を数え最大のものは、富津市内裏塚古墳で、墳丘全長は、147m(周溝含めると185m)、日本列島では74番目の規模といわれるが、5世紀古墳としては、南関東最大規模を誇る。 なお、遺跡多くは山(標高20m - 30m程度高台)側に多く分布している。これは、縄文海進影響によって当時水位は現在よりずっと高く現在の千葉県多く低地海中沈み、県域は、北部香取海南部東部古太平洋西部古東京湾によって、本州と完全に仕切られた「島」となっていたためで、この影響は、平安時代から鎌倉時代まで続いたとされるこの影響は、日本武尊に関する説話など、各地の伝承伝説などにも見受けられる竜角寺古墳群 岩屋古墳 6世紀後半になると、畿内では前方後円墳姿を消し古墳小型化する。7世紀になると仏教寺院建立されるようになるが、東国では、7世紀初めまで前方後円墳築造されていた。千葉県にある同時期の遺跡としては、栄町および成田市にある龍角寺古墳群古墳総数111 - 124基)がある。遺跡は、印旛沼東岸印波国造影響域と推定されている)にあり、周辺千葉県立房総のむら体験博物館)として整備されている。龍角寺古墳群6世紀始まったとされ、7世紀末までの200年間、複数古墳寺院築造されたもので、東国における墳墓古墳から寺院形態の変化を知る上で重要な遺跡として全国的に著名である。浅間山古墳竜角寺111号墳)の副葬品7世紀中葉までに及び、墳丘長が78mで、全国的に見て最後大型前方後円墳のひとつといわれる。この直後造られたのが岩屋古墳竜角寺105号墳)で、1辺78m、高さ12.2mの方墳で、終末期方墳としては、日本最大である。

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