縄文から古墳時代まで
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「千葉県の歴史」の記事における「縄文から古墳時代まで」の解説
古代の海岸線 大賀ハス(古代ハス) 香取神宮 縄文時代の遺跡としては、貝塚がよく知られている。縄文時代の貝塚は日本各地に約2300か所 を数え、関東地方には、約1000か所が集中している。特に東京湾周辺は、貝塚の宝庫と呼ばれ、約600か所が密集しており、千葉県の東京湾域、利根川流域の台地には644か所 ほどの遺跡が見られる。千葉市にある加曽利貝塚が有名で、千葉市若葉区の台地には、加曽利貝塚博物館が建っており、発掘品のほか、野外施設で貝の堆積状態を観察することができる。また、縄文遺跡の落合遺跡(東京大学検見川総合運動場)から発掘されたハスの実は発芽に成功し、大賀ハス(古代ハス)と呼ばれ、世界中に株分けされた。 県内では、成田市の荒海貝塚から縄文から弥生時代へ移り変わる頃の籾殻痕がついた土器が見つかっており、イネの栽培が行われていたと推定されている。ただ、千葉県内ではこれまで台地上の発掘調査が多いこともあって、水田跡はまだ見つかっていない。農耕社会に入ると、『ムラ』の形態が変化し、これまでの採集経済に代わり、生産経済が展開されていく。この過程の中で環濠集落が出現するが、千葉県では1979年(昭和54年)から行われた佐倉市の六崎大崎台遺跡の発掘で発見されている。遺跡は台地にあり、周辺の低地には、水田が広がり、そこでは技術的に完成された農業が営まれていたと推測されている。環濠集落は、政治的施設や生産工房を府置した政治的軍事的な「城塞集落」で、佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、前者の数十倍の規模があり、陸橋・門柱・柵列や物見櫓が見つかっている。また、環濠内には弥生墳丘墓や祭祀施設も備わっていたことがわかっている。 弥生時代末期になると六崎大崎台遺跡の環濠は消滅し、ムラの景観が一変する。台地の北に大型住居を伴ったムラが作られ、南には墳墓を有する大型の方形周溝墓が作られた。こうした変化は、墓がムラの共通空間として認識されるようになったこと示唆している。ムラの首長のあり方が変化し、地方豪族が誕生、社会変動の過程で新たな墓が出現するようになり、古墳時代に至る。 関東では、関西より100年遅れて2世紀から3世紀頃まで、弥生時代となる。房総の古代文化は、黒潮による南西日本との文化交流の影響が見られることから、俗に「黒潮文化」と呼ばれ、地域の文化や風習(例:漁法・建築様式等)などにその影響が見られる。 古墳時代の房総半島は、「捄国」(ふさのくに。古くは捄=麻がよく育ったことに由来、「総」は後世の当て字)と呼ばれた。『古語拾遺』によると、神代の時代に古代豪族の忌部氏の祖である天富命が阿波(徳島県)から黒潮に乗って渡来、麻を栽培して成功した肥沃な大地が捄国で、忌部(斎部)の一部の居住地には、阿波の名を取って安房としたのが起源だとされる。これら房総三国を一括する語が「吾妻」である。『記紀』神話では、日本武尊の説話が起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、元々は当地の神話であった物を取り込んだ可能性がある。安房国造の任命に際しては、出雲国造、紀国造とともに特別の任官方式が取られ、忌部氏の氏神とされる安房大神(安房神社)は、8世紀前半までは、東国では鹿島神に次ぐ扱いで、香取神を上回っていたとされる。 また、『常陸国風土記』によれば、阿波忌部氏に続き、多氏(神八井耳命の末裔の肥後国造の一族)や中臣氏が上総国に到来、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばし、中臣片岡連が氏神として鹿島神宮を建立したとされる。因みに平安時代から近代にかけて「神宮」の称号で呼ばれていたのは、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社のみである。 県内にある古墳時代初期の遺跡としては、市原市の神戸4号墳・5号墳を始め、各地で前方後円墳が出現する直前の首長墓が確認されている。また、市原市の稲荷台1号古墳から出土した「王賜銘」鉄剣からは房総におけるヤマト王権の影響力が見られる。『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、成務朝に阿波国造、長狭国造、須恵国造、馬来田国造、菊麻国造、伊甚国造、上海上国造、武社国造が、応神朝に下海上国造、千葉国造、印波国造が置かれたとされる。 県域は香取海周辺に集中する古墳郡の分布からも分かるように、古来より海上交通を通じて発達しており、東国の中でも政治的にヤマト王権との交流が深かったことから前方後円墳の数が全国的にも多い。1990年(平成2年)時点で8665基の古墳と横穴が4083基が県内で確認されており、古墳の数は全国第4位を占める。このうち100mを超えるものは14基を数え、最大のものは、富津市の内裏塚古墳で、墳丘の全長は、147m(周溝を含めると185m)、日本列島では74番目の規模といわれるが、5世紀の古墳としては、南関東で最大規模を誇る。 なお、遺跡の多くは山(標高20m - 30m程度の高台)側に多く分布している。これは、縄文海進の影響によって当時の水位は現在よりずっと高く、現在の千葉県の多くの低地が海中に沈み、県域は、北部の香取海、南部・東部の古太平洋と西部の古東京湾によって、本州と完全に仕切られた「島」となっていたためで、この影響は、平安時代から鎌倉時代まで続いたとされる。この影響は、日本武尊に関する説話など、各地の伝承や伝説などにも見受けられる。 竜角寺古墳群 岩屋古墳 6世紀後半になると、畿内では前方後円墳は姿を消し、古墳は小型化する。7世紀になると仏教寺院が建立されるようになるが、東国では、7世紀初めまで前方後円墳が築造されていた。千葉県にある同時期の遺跡としては、栄町および成田市にある龍角寺古墳群(古墳総数は111 - 124基)がある。遺跡は、印旛沼の東岸(印波国造の影響域と推定されている)にあり、周辺は千葉県立房総のむら(体験博物館)として整備されている。龍角寺古墳群は6世紀に始まったとされ、7世紀末までの200年間、複数の古墳と寺院が築造されたもので、東国における墳墓(古墳から寺院)形態の変化を知る上でも重要な遺跡として全国的にも著名である。浅間山古墳(竜角寺111号墳)の副葬品は7世紀中葉までに及び、墳丘長が78mで、全国的に見ても最後の大型前方後円墳のひとつといわれる。この直後に造られたのが岩屋古墳(竜角寺105号墳)で、1辺78m、高さ12.2mの方墳で、終末期の方墳としては、日本最大である。
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