内裏塚古墳とは? わかりやすく解説

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内裏塚古墳

名称: 内裏塚古墳
ふりがな だいりづかこふん
種別 史跡
種別2:
都道府県 千葉県
市区町村 富津市二間塚
管理団体 富津市
指定年月日 2002.09.20(平成14.09.20)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日 平成21.07.23
解説文: 内裏塚古墳は,房総半島のほぼ中央部東京湾流入する小糸川作る河口低地存在する前方後円墳である。この古墳所在する富津市では,東京湾向かって突き出た富津岬が,対岸三浦半島迫っている。東京湾のなかで最も距離が接近しており,『記紀』のヤマトタケル東方遠征経路にもあたり,古くから交通の要衝として重要な位置占めていたと考えられる
 古墳存在する小糸川周辺には,5世紀中頃から7世紀にかけて営まれ内裏塚古墳群がある。この古墳群前方後円墳11基を含む合計41基で構成され,内裏塚古墳はこの中で最大であり,最も古い時期のものである
 墳丘全長144mで,後円部径80m,後円部高13m,前方部幅77m,前方部高11.5mを測る2段築成で,東側には作り出し状の張り出しがある。周囲には一重の濠がめぐり,市教育委員会による確認調査結果周濠含めると全長は185mに達することが判明した墳丘上には円筒埴輪がめぐり,周濠からきぬがさ埴輪出土しており,形象埴輪存在した考えられる
 内部主体調査明治39年行われ,2基の竪穴式石室検出された。東側石室からは2体の人骨とともに直刀5点鉄剣2点小刀1点鉄鎌1点及び鉄鏃など,西側石室からは鏡1点直刀5点鳴鏑9点,胡?金具1点及び鉄鏃などが出土した。胡?金具朝鮮半島からの舶載品であり,鉄鎌鉄鏃朝鮮半島影響受けた新しい形態である。また,鳴鏑全長7.5cm測るが,このような大型品は全国的に類例のない珍しいものである
 内裏塚古墳は南関東最大前方後円墳であり、古墳時代中期においてこの地域有力な政治勢力台頭してきたことを示すとともに出土品内容からすると大和政権密接な関わりがあったことを示唆する当時政治関係を知る上で極めて重要であり,史跡指定し保護図ろうとするものである
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史跡:  具志原貝塚  具志川城跡  具志川城跡  内裏塚古墳  円教寺境内  円満院庭園  円覚寺境内

内裏塚古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 14:40 UTC 版)

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内裏塚古墳

墳丘全景(右手前に前方部、左奥に後円部)
別名 オダイリヤマ
所属 内裏塚古墳群
所在地 千葉県富津市二間塚字東内裏塚
位置 北緯35度19分33.4秒 東経139度51分25.8秒 / 北緯35.325944度 東経139.857167度 / 35.325944; 139.857167座標: 北緯35度19分33.4秒 東経139度51分25.8秒 / 北緯35.325944度 東経139.857167度 / 35.325944; 139.857167
形状 前方後円墳
規模 墳丘長約144m
埋葬施設 無袖式横穴式石室
出土品 二体の人骨・青銅鏡・鉄直刀2・鉄鎌1・鉄角棒1・長刀1
築造時期 5世紀中頃
被葬者 (推定)須恵国造首長墓
史跡 国の史跡「内裏塚古墳」
特記事項 千葉県第1位の規模[1]
地図
内裏塚古墳
千葉県内の位置
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内裏塚古墳(だいりづかこふん)は、千葉県富津市二間塚字東内裏塚にある前方後円墳。国の史跡に指定されている。千葉県内では最大規模の古墳で[1]5世紀中頃の築造と推定される。

概要

内裏塚古墳の空中写真(1961年)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

地元では「オダイリヤマ」とも呼ばれている。全長約144メートルで、内裏塚古墳群中最大の古墳となる。規模からも小糸川下流域の盟主墳となっていて、5世紀中頃に造成されたと推定されている。

当時この地域は須恵(末)の国造の地といい、「国造本紀(先代旧事本紀)」によれば、須恵には茨城国造の祖、建許侶命(たけころのみこと)の子・息大布日意弥命(おおふひおみのみこと)が任命された、とされる。大布日意弥命の兄弟、深河意弥命(ふかがわおみのみこと)は小櫃川流域の馬来田国造として任命されている。

須恵国造は小糸川下流域全域を支配下に置いたとされている。そのため内裏塚古墳の被葬者はこの須恵国造ではないかという説がある。

また、地元の伝承では、『万葉集』の高橋虫麻呂の歌に登場する「珠名娘子」の墓であるともされていた。

規模

規模は以下の通り。

  • 墳丘長:約144メートル
  • 後円部
    • 直径:約84メートル
    • 高さ:約11.5メートル
  • 前方部
    • 幅:約88メートル
    • 高さ:13メートル

調査・出土品

1906年(明治39年)東京大学人類学教室坪井正五郎教授柴田常恵実施。

1964年(昭和39年)本郷高校坂井利明実施。

石室が二つあり、東の第一石室からは、二体の人骨及び鉄製武器類が出土した。側にあった人は、胸の前で腕を折り曲げるように埋葬さた形で、整然と仰向けに埋葬されていた。武器類として鉄直2、鉄角棒1、鉄鎌1、長刀1他が出土した。他に青銅1面(直径13センチメートル)などが出土した。朝鮮半島製の金銅製胡籙金具や鏑矢が出土している。

墳丘には円筒埴輪列が三段めぐり、家型埴輪や人物埴輪も置かれていたものと考えられている。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 内裏塚古墳(国指定史跡)(千葉県公式観光物産サイト「まるごとe! ちば」)。

参考文献

  • 富津市史編さん委員会『富津市史』富津市発行、1984年
  • 大塚初重「内裏塚古墳群を歩く(私の歴史散歩)」『本郷』第80号、吉川弘文館、2009年、 28-30頁。

関連項目

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