古墳の立地と内裏塚古墳群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 13:52 UTC 版)
「九条塚古墳」の記事における「古墳の立地と内裏塚古墳群」の解説
内裏塚古墳群は小糸川が形成した沖積平野にある、もともとは砂丘であった微高地上に築造された古墳群である。古墳群は東西約2.5キロ、南北約2キロの範囲に及んでいる。九条塚古墳の標高は約8メートルであり、やはり沖積平野にあるかつて砂丘であった微高地上に築造されている。 内裏塚古墳群ではまず、5世紀半ばに古墳群内最大の墳丘規模である内裏塚古墳が造られた。同じ頃に小櫃川下流域に高柳銚子塚古墳、養老川下流域には姉崎二子塚古墳といった大型の前方後円墳が造営されており、上総西部の沖積平野を中心として地域を統合する首長が生まれたものと考えられる。 その後5世紀後半には古墳群南方約4キロに弁天山古墳が築造され、5世紀末頃には、現在の青堀駅近くにある上野塚古墳が築造された。なお、弁天山古墳は内裏塚古墳群の主要部からかなり離れた場所にあるが、これは内裏塚古墳を築造した首長が墓域を移動したことによるとの説があるが、一方、内裏塚古墳と弁天山古墳・上野塚古墳と九条塚古墳との関連性ははっきりしないとの説もある。5世紀末以降、内裏塚古墳群以外の小櫃川下流域の祇園・長須賀古墳群でも古墳の築造が中断され、養老川下流域の姉崎古墳群では古墳の築造自体は継続していたが規模は縮小しており、上総地方では首長の実力が一時的に低下したものと考えられる。 6世紀半ば頃の九条塚古墳の造営は、内裏塚古墳群では約半世紀ぶりの古墳造営であった。その後は地域を代表する首長を葬ったと考えられる墳丘長100メートルを越える盟主墳、その下に位置する首長を葬った墳丘長約50-70メートルの前方後円墳、さらにその下位に位置する首長を葬った直径20-30メートル程度の円墳が同時進行的に築造された。つまり内裏塚古墳群は埼玉古墳群や龍角寺古墳群など、他の関東地方の有力古墳群と同じく、複数首長が同一地域に墓域を定めた複数系譜型の古墳群と考えられる。内裏塚古墳群の場合、古墳群の構造から上位の首長、中位の首長、下位の首長という三系統の首長が同一地域に墓所を定めたものと想定される。これは同一古墳群内に葬られる首長同士の結束の強さを外部にアピールするとともに、首長同士の結束の確認手段とされたと見られている。そして6世紀末と考えられる前方後円墳築造終了後も、内裏塚古墳群では引き続き割見塚古墳などの方墳の築造が7世紀末頃まで続けられた。 九条塚古墳は6世紀半ば以降の内裏塚古墳群最盛期の先駆けとして築造された、古墳群の画期とされる古墳であり、また同じ時期、関東地方各地で盛んとなる古墳造営の一翼を担う古墳として、その築造の意味は大きいとされる。
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