古墳の調査と発掘の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 08:09 UTC 版)
「駄ノ塚古墳」の記事における「古墳の調査と発掘の経緯」の解説
板附古墳群を構成する西ノ台古墳は1951年(昭和26年)、不動塚古墳は1954年(昭和29年)に発掘が行われたが、その際に同じ古墳群に属する駄ノ塚古墳について着目された形跡はなく、駄ノ塚古墳が文献にその名が見えるのは1958年(昭和33年)に執筆された山武郡の古墳についての研究書が初めであり、研究者に注目をされるようになったのは比較的最近のことである。1979年(昭和54年)には初めて測量調査が行われ、駄ノ塚古墳は大型の方墳である可能性が高まったとされたが、まだこの時点では後世の富士塚などの塚である可能性もあると見られていた。 国立歴史民俗博物館では、1985年(昭和60年)度から6年間の計画で「日本歴史における地域性の総合研究」が行われることになった。その中で「古代東国の地域的特性」がテーマの一つに取り上げられ、まず古代東国の中でも古墳時代の後期から終末期にあたる6世紀から7世紀の東国の古墳について焦点を絞ることになった。これはヤマト王権の本拠地である畿内では、6世紀末から7世紀初頭にかけて前方後円墳の築造が終了して大型方墳や大型円墳の築造が行われるようになったことが明らかになってきたが、関東地方を始めとする東日本では、前方後円墳の築造終了については畿内とあまり時間差がないことはわかってきたが、前方後円墳以降に築造されたと考えられる龍角寺古墳群の岩屋古墳、群馬県にある総社古墳群の宝塔山古墳、栃木県の壬生車塚古墳などの大型方墳や円墳が築造された時期については、畿内とほぼ同時期の7世紀初頭から前半という説と、7世紀後半から8世紀まで下るとの説に分かれていた。 この中で、発掘結果から6世紀後半から末頃に造営された前方後円墳であることが明らかになっている西ノ台古墳と不動塚古墳が存在する板附古墳群内の大型方墳である駄ノ塚古墳は、前方後円墳の終末とそれに続く大型方墳の築造について知ることができる古墳であると判断され、また前述のようにこれまで注目されることが少なく、実態がほとんど明らかになっていない駄ノ塚古墳について調査することは大きな意義があると考えられた。そのため1985年(昭和60年)から1986年(昭和61年)にかけて2次にわたって駄ノ塚古墳の発掘が国立歴史民俗博物館の手によって行われることになった。また駄ノ塚古墳北西にある駄ノ塚西古墳についても、駄ノ塚古墳の第2次調査と並行して1986年(昭和61年)に発掘調査が行われ、その後第3次調査として1988年(昭和63年)には、板附古墳群内で駄ノ塚古墳と最も近い時期に造営されたと考えられる不動塚古墳の再測量調査が行われた。
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