古墳の立地と環境
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:41 UTC 版)
高尾山古墳は愛鷹山から伸びる尾根の末端部に立地している。古墳の立地場所の標高は約20メートルであり、尾根上の立地ではあるものの高台に築造された古墳であるとはみなし難い。 古墳が立地している愛鷹山は約40万年前に活動を開始したと考えられる火山である。約17万年前以降、愛鷹山は山体の南東部、現在の沼津市から長泉町方面に盛んに安山岩質やデイサイト質の溶岩を流出し、なだらかな丘陵地が形成されていった。高尾山古墳はこの約17万年前から始まった愛鷹山の火山活動によって形成された丘陵地の末端に築造された。 愛鷹山の火山活動は約10万年前には終了し、その後、愛鷹山の北北西にある古富士火山が活発に活動するようになる。古富士火山の活発な活動によって愛鷹山の山麓には大量の火山灰が降り注ぎ、ぶ厚いローム層が形成されていく。古富士火山の活動後半期には上部ローム層と呼ばれる地層が形成された。上部ローム層は激しい噴火活動に伴い噴出したスコリア層と、腐植質の土壌とされる黒色帯の互層となっている。愛鷹山麓に上部ローム層が形成された時代、堆積した火山堆積物は富士山に関わるものばかりではない。約2万5千年前とされる姶良カルデラの巨大噴火による火山灰は愛鷹山麓にも厚く積もり、時期をほぼ同じくして活動した古富士火山の火山堆積物と混合し、ニセローム層と呼ばれる地層を形成した。 古富士火山の活動休止後、約1万1000年前からは新期富士火山の活動が始まる。新期富士火山の活動は当初大規模な溶岩流出がメインであり、愛鷹山が障害となって高尾山古墳周辺には溶岩は到達しなかった。そのためこの時期、愛鷹山麓では黒色帯の地層が発達する。上部ローム層最上部にあたる休場ローム層の上部にみられる黒土層がそれである。約3200年前の縄文時代晩期には、天城山のカワゴ平から伊豆東部火山群の活動の一環として大量のカワゴ平軽石が噴出するが、愛鷹山の山麓では基本的に目立った地層を形成していない。そしてやはり縄文時代晩期には、富士山の東側斜面で大規模な山体崩壊が発生し、大量の土石流が黄瀬川流域に流れ下った。その結果として現在の沼津市街地の東部に岩屑なだれが堆積し、黄瀬川を中心とした扇状地を形成した。これを黄瀬川扇状地と呼び、弥生時代が始まる頃には現在の沼津市街地の東部は陸化していたと考えられる。 一方、高尾山古墳の西側は、縄文海進によって愛鷹山のふもとまで海が広がっていた。その後、海退と富士川より供給された土砂などによって狩野川の河口方面に向かって砂州が形成されていき、やがて愛鷹山麓と砂州との間に水域が形成された。これが浮島沼の原型である。この水域は汽水域から沼地、そして湿地帯へと遷移していくが、高尾山古墳が築造された時期には、古墳の南西から約2~3キロメートルの地点まで舟による行き来が可能であったと考えられている。 そして弥生時代最末期から古墳時代初頭にかけて、新期スコリアが高尾山古墳周辺の愛鷹山山麓に降下した。高尾山古墳の後方部墳丘は、この新期スコリア層の直上に築造されている。
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