古墳の発見と調査とは? わかりやすく解説

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古墳の発見と調査

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 21:38 UTC 版)

甲斐銚子塚古墳」の記事における「古墳の発見と調査」の解説

江戸時代後期文化11年1814年)に編纂された甲斐国地誌甲斐国志』では甲斐銚子塚古墳に関する記述があり、この時代から「銚子塚」と呼称されていたことが確認される近代には伊勢講信仰対象として山頂石祠石灯籠などがり、「伊勢塚」と称された。なお、現在では伊勢講に関する施設史跡整備により別の地点移設されている。 1925年大正14年)に刊行された『史跡名勝天然記念物調査報告書においては石室有した大型前方後円墳で、環濠周溝)、埴輪を伴う古墳であることが著述されている。 1928年昭和3年3月17日伊勢講帳屋あくしゃ建設の際に竪穴式石室大量副葬品発見された。この時の調査文部省嘱託の上三平により同年9月1日刊に『史学雑誌』に掲載され論文銚子塚通して観たる上代文化一考察」において報告された。上田は同論文において甲斐銚子塚古墳規模石室形態副葬品関東畿内古墳比較し甲斐銚子塚古墳畿内との結び付きの強い古墳であることを指摘した戦後には1966年昭和41年)には明治大学考古学研究室・大塚初重主導による測量が行われ、主軸長は169メートル前方部幅は69メートルで高さ8.5メートル後円部径は92メートルで高さ15メートル推定された。1928年出土品大半東京国立博物館収蔵された。 1985年昭和60年)には山梨県教育委員会による発掘調査が行われた。1975年昭和50年)には『中道町史』において調査結果がまとめられた。1983年昭和58年)から整備保存工事施され周辺曽根丘陵公園として整備され1982年昭和57年)には甲斐銚子塚古墳をはじめ山梨県内から出土した考古資料保管展示する山梨県立考古博物館開館した1986年昭和61年)には甲斐銚子塚古墳をはじめ古墳時代前期扱った第4回特別展古代甲斐国畿内王権」が開催されている。 1998年平成10年)からは後円部周辺地域公有地化が進められ2004年平成16年)には完了するあわせて後円部発掘調査実施され2001年平成13年)には後円部西側で墳端が確認された。2004年には後円部北側後述する「突出部」と祭祀関わる木製品出土した東日本前期古墳において「突出部」の存在木製品出土類例のないことから、第2次調査による発見銚子塚古墳は再び注目された。2006年には山梨県立考古博物館第24回企画展甲府盆地から見たヤマト』が開催され出土した木製品などが展示された。また、2007年には『発掘され日本列島2007新発見考古速報展-』においてもこれらの木製品出展されている。

※この「古墳の発見と調査」の解説は、「甲斐銚子塚古墳」の解説の一部です。
「古墳の発見と調査」を含む「甲斐銚子塚古墳」の記事については、「甲斐銚子塚古墳」の概要を参照ください。

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