古墳の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:29 UTC 版)
前方部主軸を北西30°に向けた前方後円墳で墳丘は全長96mの2段構築となっており、北東側に造出の存在が確認されているほか、墳丘を取り囲む盾型の周濠を持つ。同古墳には隣接して味美白山神社古墳と御旅所古墳があり、500mほど北西にある味美春日山古墳などとともに、味美古墳群を形成している。なお、主体部(埋葬施設)は不明だが、後述する複数の調査から築造時期は6世紀初頭とみられている。
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古墳の構造
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墳丘は緩い傾斜地に作られ、周湟をめぐらせた。古墳の南東と南で一部発掘された周湟の深さは30から40センチメートル、上の幅は3.3から4.3メートル、底の幅は2.3から3.9メートルである。 墳丘の内部に二つ、石を積み上げて築いた墓室(礫槨)が別個に平行して設けられた。礫槨の中に石棺が置かれた。石棺は板状の石を組み立てて細長い直方体にした箱型石棺である。
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古墳の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 04:14 UTC 版)
金鈴塚古墳は1946年に米軍が撮影した航空写真や、1950年に行われた発掘の結果、更には1998年から2003年にかけて、古墳近隣の建設工事などの際に行われた範囲確認調査の結果から、西に前方部、東に後円部がある墳丘長約100メートルの前方後円墳であることが明らかとなった。墳丘の周囲には二重の周濠があって、周濠まで含めた全長は約140メートルと推定されている。周濠の深さは墳丘をめぐる内側の周濠は約1メートル、外側の周濠は内濠よりもやや浅かったものとの推定がある。 墳丘については現在約3.5メートルの高さがあるが、1950年の発掘報告書では、石室に流入した土砂の量などから築造当時は6メートル程度の高さがあったものと推定された。金鈴塚古墳はその面積の割に墳丘の高さは低かったものと見られている。墳丘の形態については後期古墳に多く見られる二段築成で、一段目が比較的低く墳丘の傾斜もゆるやかであったか、または一段目は基壇状になっていたと考えられている。 後円部には入り口が南側を向いている、富津市付近で産出する砂岩で造られた横穴式石室がある。石室の入り口は二段になっている墳丘の二段目に開口されていた。石室は羨道と石室の区別がない袖無し型で、1950年の発掘結果をもとに、1951年に復元された現在の石室の全長は約9.6メートル、最大幅は約2.2メートル、高さは約2メートルである。石室の形は、入り口がやや狭く奥に行くに従って少しずつ広がった形をしており、床の部分から天井部に向かっては少しずつ幅が狭くなる形態をしている。そして天井には大きな天井石が置かれている。しかし発掘時、石室の入り口部分は1932年に行われた道路工事のために削られてしまった後であり、石室全体の正確な形態は不明である。石室の形態は現在の富津市内の内裏塚古墳群に所属する前方後円墳など、上総の南西部で造られていた横穴式石室の形態を引き継いだものであるが、金鈴塚古墳と同じく終末期の前方後円墳とされる、千葉県印旛郡栄町の龍角寺古墳群にある浅間山古墳の横穴式石室との類似点も見られ、地域に伝統的に伝わる石室の形態を引き継ぎながらも、房総地域の終末期の前方後円墳には、石室に一定の規格が採用されていた可能性を指摘する説もある。 石室は基本的には自然石を積み上げ造られたもので、一部に加工された切石が用いられており、特に床には砂岩の切石が敷かれている。自然石をそのまま使わずに切石を石室築造に用いるのは前方後円墳後の7世紀以降盛んになる形式であり、築造の最終段階にあるとはいえ、前方後円墳である金鈴塚古墳の石室の一部に切石が用いられていることから、金鈴塚古墳の先進性を見ることができる。 石室内には埼玉県の長瀞渓谷付近からもたらされたと見られる緑泥片岩で作られた組み合わせ式の石棺がある。
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古墳の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 13:52 UTC 版)
九条塚古墳の墳丘は長さ103メートル、後円部直径が57メートル、前方部幅は74メートルであり、6世紀のヤマト王権の大王墓と考えられる今城塚古墳、河内大塚山古墳と墳丘の形の類似性が指摘されており、九条塚古墳は畿内の大王陵をモデルに築造されたとの説がある。しかし九条塚古墳に後続する稲荷山古墳、三条塚古墳では前方部の長さが増大するなど築造企画の独自性を強めている。 墳丘の高さは前方部が7.9メートル、後円部が7メートルと古墳の規模に比べて低く、墳丘には段築も見られない。しかし墳丘周囲を盾形の二重周溝が巡り、周溝部を含めると全長約150メートルに達し、平面的な大きさを強調した古墳であるということができる。この平面的な大きさを強調した築造企画は、稲荷山古墳、三条塚古墳、そして前方後円墳築造終了後に築造された大型方墳である割見塚古墳へと引き継がれていく。 1989年から行われている範囲確認調査の中で円筒埴輪が検出されており、墳丘には円筒埴輪が並べられていたと考えられるが、動物などを象った形象埴輪は現在のところ確認されておらず、円筒埴輪の検出もかなり限定的で、埴輪が墳丘を何段にも囲むように立てられていたとは考えられない。 九条塚古墳の埋葬施設は長さ約9.45メートル、幅は1.7-1.95メートルの長方形をしており、長軸が墳丘に直交していたと記録されている。かつては竪穴式石室であったと考えられていたが、最近では石室の規模や長軸が墳丘に直交していることなどから横穴式石室である可能性が高いと考えられている。横穴式石室であれば、千葉県内では最も古い横穴式石室の一つであると見られる。 石室は砂岩の自然石で造られていて、天井石と考えられる大石の一部は、現在後円部墳頂に建てられている石碑の台座として用いられており、また後円部墳丘には石室の石材であったと思われる石が散乱している。砂岩は富津市内の海岸から運ばれたものであり、内裏塚古墳群の各古墳のほか、祇園・長須賀古墳群の金鈴塚古墳、そして埼玉古墳群の将軍塚古墳でも同じ富津市内の海岸から運ばれたと考えられる砂岩が石室に用いられており、当時の関東地方の有力首長が広域で交流を持っていたことがわかる。
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古墳の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 08:09 UTC 版)
駄ノ塚古墳は墳丘の一辺が62-64メートルの、ほぼ正方形をした方墳である。墳丘は三段に築成されており、墳丘の高さは約10メートルである。一段目の高さは約2メートル、二段目は約3メートル、三段目は約5メートルであり、三段目の高さが一番高くなっている。墳丘周囲は二重の周溝が巡っていて、内溝は幅3.8-5メートル、深さ0.5-1.1メートルで、内側の溝の外側には約4メートルの堤があり、堤の外側には幅1.2-4.2メートル、深さ0.4-0.8メートルの外溝がある。内溝、外溝ともに古墳東側に谷がある影響からか墳丘東側の周溝は幅が細く、南辺でも東側に向かうにつれて外溝は細くなっている。外溝の外側の周囲は一辺約84メートルに達する。 墳丘は台地上に構築されているが、全体的に北西から南東側に向けて傾斜しており、標高の高い墳丘の西側と北側については地表を削って整地したものと考えられる。墳丘は主に関東ローム層を構成する土で造られているが少量の黒色土も混じっており、これはローム土の赤土の中に黒色土の層を作ることによって墳丘の構造を安定化させる狙いがあったと見られている。 墳丘の発掘の中で、墳丘の盛土内に大きな溝が検出された。溝は墳丘の南側を除く東、北、西側で確認されており、溝はいったん墳丘の盛土がある程度行われた後、盛土部分から古墳の基盤のローム層にかけて掘り込まれており、それぞれ墳丘の中心から約20メートルのところを幅約4-5メートル、深さ2メートル以上も掘り込まれていた。これは駄ノ塚古墳は当初一辺40メートル程度の方墳として計画されたものが、途中から設計変更が行われ現在の一辺約62メートルの方墳となったため当初の計画での周溝が検出されたとも考えられたが、一番肝心の墳丘南側の横穴式石室がある部分では溝が検出されず、何よりもいったん盛土がなされた後に掘り込まれている事実から設計変更ではなく、墳丘の強度を増すための工法の一種ではないかと推測されている。 なお、墳丘からは葺石、埴輪は全く検出されていない。 前方後円墳の築造が終了した後、房総半島では龍角寺古墳群の岩屋古墳、祇園・長須賀古墳群の松面古墳、内裏塚古墳群の割見塚古墳といった大型の方墳が有力首長によって造営されたが、その中で駄ノ塚古墳は岩屋古墳に次ぐ墳丘規模を持つ。
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