藤原季通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/04 14:48 UTC 版)
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時代 | 平安時代後期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
官位 | 正四位上、備後守 |
主君 | 白河上皇→堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇 |
氏族 | 藤原北家中御門流 |
父母 | 父:藤原宗通、母:藤原顕季の娘 |
兄弟 | 宗子、信通、伊通、季通、成通、重通、定通、良延、宗海、伊覚 |
子 | 伊長(少納言) |
藤原 季通(ふじわら の すえみち)は、平安時代後期の公家・歌人。藤原北家中御門流、権大納言・藤原宗通の三男。官位は正四位上・備後守。
経歴
和歌のほか、琵琶・笛・箏などの管弦に巧みであり、白河上皇の信任が篤かった。しかし、若年時に箏の弟子である藤原璋子(鳥羽天皇中宮)と密通したとの嫌疑を受け、その影響から官途の面では不遇であった。
左近衛少将を経て、白河院政期の中期から後期にかけて、美濃守・備後守と受領を歴任した。鳥羽院政期の康治元年(1142年)弟の成通や重通(いずれも権中納言)より官位が余りにも劣っていたことを内大臣・藤原頼長に憐れまれ、その計らいによって正四位下に叙せられる。久安5年(1149年)正四位上に至るが、備後守を去ってからは長く散位であったらしく[1]、結局公卿昇進は果たせなかった。
保元3年(1158年)頃までは生存していたというが、その没年も明らかではない。
人物
幼少の頃、兄・伊通と共に伯母の藤原全子の許を訪れた際、全子は「兄の方は将来大臣になるが、弟は凡愚で終わるだろう」と評したという(『古事談』)。果たして、政治面では生涯を通して非才・不遇であり、専ら文化・芸術面でのみ名を遺した人物となった。
歌人としては永久4年(1116年)の鳥羽殿北面歌合に出詠。『千載和歌集』などの勅撰和歌集に16首が採録されているほか[2]、家集として『季通朝臣集』がある。
官歴
- 時期不詳:左近衛少将[3]
- 天仁2年(1109年) 9月6日:見美濃守[4]
- 天永3年(1112年) 正月27日:備後守[5]
- 元永2年(1119年) 7月:見備後守[6]
- 康治元年(1142年) 正月5日:正四位下[7]
- 久安5年(1149年) 3月20日:正四位上[8]
系譜
『尊卑分脈』による。
子の伊長は人相見であり相少納言と呼ばれた。源頼政の依頼で以仁王の人相を占って、令旨を出すように促したという(『平家物語』)。
脚注
参考文献
固有名詞の分類
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