藤原定通とは? わかりやすく解説

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藤原定通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/26 13:37 UTC 版)

藤原 定通 (ふじわら の さだみち、応徳2年(1085年) - 永久3年8月24日1115年9月14日))は、平安時代後期の貴族藤原北家閑院流権中納言藤原保実の子。小野宮流、権中納言・藤原通俊、次いで、中御門流藤原宗通の養子。官位正五位下右少弁

経歴

承徳3年(1099年権中納言藤原通俊が没すが、それ以降に通俊の養子となる。のち、権大納言藤原宗通の養子となった[1]

従五位下叙爵後、白河院政期中期の長治元年(1104年左衛門佐に任官する。少納言兵部大輔を経て、永久3年(1115年)8月に右少弁に任ぜられるが、同月24日に卒去享年31。右少弁に任じられるも10日余りで没したため、世に七日弁と称された[1]

官歴

系譜

尊卑分脈』による。

脚注

  1. ^ a b c 『尊卑分脈』
  2. ^ a b c 『中右記』

参考文献




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