藤原家通 (権中納言)とは? わかりやすく解説

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藤原家通 (権中納言)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/28 15:10 UTC 版)

 
藤原家通
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 康治2年(1143年
死没 文治3年11月1日1187年12月2日
改名 基重(初名)→家通
官位 正二位権中納言左衛門督
主君 近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇
氏族 藤原北家難波家中御門流
父母 父:藤原忠基、母:藤原有広の娘
養父:藤原重通、養母:源師頼の娘
兄弟 教宗、家通、基家、忠仲
正室:高松院新大納言藤原俊成の娘)
時通、敦通、定通、親通、信家、重信、尊能、円家
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藤原 家通(ふじわら の いえみち)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿歌人藤原北家難波家中納言藤原忠基の子。官位正二位権中納言左衛門督。六角小路に邸宅があったことから「六角」と号する。

経歴

母が家女房として仕えていた大納言藤原重通の養子となる。

久安4年(1145年)に従五位下に叙され、仁平4年(1154年)に従五位上に進む。保元元年(1156年)正月に左兵衛佐、同年九月に左近衛少将となり、翌年正五位下に進む。保元4年(1159年)に従四位下に進む。永暦元年(1160年)に従四位上右近衛中将となる。

応保3年(1163年)に正四位下に進み、長寛2年(1164年)に二条天皇蔵人頭を兼ねて頭中将となり、六条天皇の即位後も留任した。仁安元年(1166年)に参議に任じられ、2年後に従三位に進む。承安2年(1172年)に正三位に進む。治承三年の政変後に藤原光能に替わって右兵衛督を兼ね、寿永元年(1181年)に従二位に進み左兵衛督に転じる。翌年権中納言右衛門督に任じられる。元暦元年(1184年)に正二位に進み、文治2年(1186年)に左衛門督を兼ねる。翌年、権中納言兼左衛門督を退き、間もなく死去した。

和歌にも秀で、『千載和歌集』と『新古今和歌集』にそれぞれ2首採録されている。また、『角金記』と呼ばれる日記(通称の「六角金吾(=衛門督)」に由来)があったとされるが、現存していない。

系譜

  • 父:藤原忠基
  • 母:藤原有広の娘
  • 養父:藤原重通
  • 養母:源師頼の娘
  • 正室:高松院新大納言(祗王御前) - 藤原俊成の娘
    • 男子:藤原時通
    • 男子:藤原敦通
  • 生母不明の子女
    • 男子:藤原定通
    • 男子:親通
    • 男子:信家
    • 男子:重信
    • 男子:尊能
    • 男子:円家



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