藤原貞憲とは? わかりやすく解説

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藤原貞憲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 14:55 UTC 版)

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藤原貞憲
時代 平安時代後期
生誕 保安4年(1123年
死没 平治元年(1159年)?
官位 従四位下権右中弁
主君 後白河天皇二条天皇
氏族 藤原南家貞嗣流
父母 父:藤原通憲(信西)、母:高階重仲の娘
兄弟 俊憲貞憲静賢澄憲覚憲、憲曜、成範勝賢是憲明遍脩範、光憲、寛敏、行憲、憲俊、寛兼、憲慶、阿波内侍?、藤原隆季室、藤原長方室、藤原親信室、少将有房室、藤原家房室、源為国
養兄弟:俊経
藤原光憲、貞雅、貞覚、実玄、貞慶、貞円
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藤原 貞憲(ふじわら の さだのり)は、平安時代後期の貴族歌人藤原南家貞嗣流少納言・藤原通憲(信西)の次男。官位従四位下権右中弁

経歴

対策に及第したのち、少納言飛騨守を歴任する。正五位下右衛門権佐に叙任されたのち、後白河院政期初頭の保元3年(1158年保元の乱後権力を握っていた父・信西の差配により右少弁五位蔵人を兼ね三事兼帯の栄誉に浴す。

平治元年(1159年)5月に従四位下・権左少弁に叙任され、閏5月には上﨟の左少弁・藤原朝方を越えて権右中弁に昇任される。しかし、同年12月に平治の乱が発生して信西が敗死すると、信西の子息は流罪となり、貞憲は土佐国への配流に処された。一説では、出家するもまもなく追っ手の兵士の手で殺害されたともいう[1]。いずれにしても、翌永暦元年(1160年)には兄弟の俊憲成憲らが平安京に召し返されている一方で、貞憲にそのような形跡はなく、乱後まもなく没したか。

勅撰歌人として『千載和歌集』に和歌作品1首が採録されている[2]

官歴

注記のないものは『弁官補任』による。

系譜

尊卑分脈』による。

  • 父:藤原通憲(信西
  • 母:高階重仲の娘
  • 生母不詳の子女
    • 男子:藤原光憲
    • 男子:貞雅
    • 男子:貞覚
    • 男子:実玄
    • 男子:貞慶(1155-1213)
    • 男子:貞円

脚注

  1. ^ 『弁官補任』
  2. ^ a b 『勅撰作者部類』
  3. ^ a b c 『尊卑分脈』

参考文献




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