為義の息子の処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 01:19 UTC 版)
物語後半で為義の息子たちが、兄義朝によって処刑される場面は、物語のなかでももっとも哀切な場面として享受されてきた。しかし、この処刑については、ほかに拠るべき史料にとぼしい。物語では天皇方からの命令によってやむを得ず切ったことになっているが、息子たちを殺すようにとの勅が出た形跡もない。 近時、元木泰雄は、弟たちを処刑したのは義朝自身の意思で、対立状態の続く河内源氏を統制するために行ったものではないかとの推測をしている。為義と義朝の関係が険悪であったことは『愚管抄』にみえており、これが事実だとすると物語における親子関係も虚構による面が多い。あるいは、この息子たちも河内源氏の主導権争いに巻き込まれたものであるかもしれない。一方、『愚管抄』よりも物語のほうが真実に近いのではないかとする飯田悠紀子のような理解もある。 確かにこの親子が仲違いしていたという史料も『愚管抄』以外にはない。しかし、橋本義彦が指摘しているように、保元の乱の数年前からは為義は忠実・頼長に接近し、義朝は鳥羽院・後白河天皇側に接近していることは確かで、この親子の間が密接なものでなかったことは事実のようである。
※この「為義の息子の処刑」の解説は、「保元物語」の解説の一部です。
「為義の息子の処刑」を含む「保元物語」の記事については、「保元物語」の概要を参照ください。
- 為義の息子の処刑のページへのリンク