為義の処刑地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 01:19 UTC 版)
『兵範記』では平安京北の船岡山で息子5人とともに処刑されたとある。一方、物語では七条朱雀でひとり切られたことになっている。また、『兵範記』によれば、処刑は息子である義朝自身が実行したと考えられるが、物語では鎌田正清と波多野義通によっておこなわれている。この為義の処刑をめぐっては異説が多く、『愚管抄』は義朝が実行、場所は四塚(平安京からわずかに南)とし、『尊卑分脈』は実行者・場所ともに物語とおなじである。しかし、『兵範記』にはわざわざ為義の首実検が行われたことまで記録されており、これらのことは史料の年代からしても事実と思われる。すくなくとも、室町時代の成立である『尊卑分脈』は信用し難い。
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