浦和時代
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2016年、浦和レッズに小島秀仁以来のチーム5年振りの高卒ルーキーとして 入団。当初はボランチとして起用され、開幕戦でベンチメンバー入りを果たすと、4月29日の第9節・名古屋グランパス戦で柏木陽介との交代でプロデビューを果たし、交代直後はボランチ、途中からは本職のシャドーでプレーした。しかしその後は柏木、阿部勇樹、青木拓矢、遠藤航らライバルの存在により出場機会が訪れず、同年は公式戦1試合出場に留まった。 2017年は同じポジションの矢島慎也と長澤和輝が期限付き移籍先から復帰し、更に競争が激化。伊藤自身はミニゲームにすら参加できない状況も生まれた。8月30日のルヴァンカップ準々決勝のセレッソ大阪戦ではスタメンとして出場し、下部組織時代に所属していた相手にドリブルで躍動したが、一方で公式戦のピッチへの慣れや体力面で戸惑い、63分に交代を命じられた。
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浦和時代
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2004年から4年2ヶ月の間、浦和レッドダイヤモンズのヘッドコーチを務める。エンゲルス自身監督経験豊富にもかかわらず、一歩下がって当時の監督であったギド・ブッフバルト、ホルガー・オジェックの片腕としてサポートする浦和にとって貴重な存在であった。 2008年3月16日、成績不振の責任とクラブ内の意思疎通の欠陥を問われたオジェックが解任されたことに伴い、監督に昇格した。これによって、Jリーグのクラブで指揮を執るのは4チーム目ということになった。就任後、守備の要である闘莉王をボランチで起用し、ユース出身の堤俊輔や、ブッフバルト体制からセンターバックとして起用されることが多かった細貝萌を本職のボランチで起用するなど、サプライズ起用や若手起用などを行うことでチームの活性化を図る。数々の策が功を奏し、第13節 G大阪戦までリーグ戦9試合負けなしの好成績を収め、下位に沈んでいたチームを上位まで引き上げた。しかし中断期間終了後は他チームに研究され始めたこともあってか、思うように白星を得られなくなり、ナビスコカップは予選リーグ敗退、連覇を目指していたACLもガンバ大阪に敗れて準決勝敗退、2年ぶりの奪還を目指した天皇杯も横浜F・マリノスに敗れて5回戦で敗退するなどとチームは低空飛行を続けた。 奇策にすがるようにも見える起用法や采配には選手やサポーターから批判が起こり、選手紹介の際にスタジアムがブーイングで鳴り響く事態に陥った。そして極めつけは当時の主力だった永井雄一郎がエンゲルスの采配と浦和フロントのコンセプトの無さを公然と批判する事態にも発展した(最終的に永井はこの年限りで浦和を退団し、清水エスパルスへ移籍した)。 また、最後の望みとなったリーグ戦も第32節清水戦、第33節G大阪戦に敗れ、翌日には名古屋が札幌に勝利したことによりチームは5年ぶりの無冠が決定した。また、リーグ戦順位が4位以内に及ばなかったことにより翌シーズンのACL出場も逃し、契約を1年残して解任を通告された。
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