浦和競馬デビューからJRA移籍 (4歳(1992年7月) - 7歳(95年10月)
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「トロットサンダー」の記事における「浦和競馬デビューからJRA移籍 (4歳(1992年7月) - 7歳(95年10月)」の解説
4歳となった1992年7月1日、浦和競馬場の20万円以下でデビューし、逃げ切り2馬身差をつけて初勝利。それから9馬身、5馬身、3馬身、4馬身差で勝利。すべて浦和ダート1400メートルの逃げ切りでデビュー5連勝を果たした。年をまたいで5歳となった1993年1月3日、ここまで騎乗した桃井十四秋から、本間光雄に初めて乗り替わった6戦目、スタートで出遅れて、半馬身差し届かず2着に敗れた。それから桃井が舞い戻り、1馬身半、4分の3馬身差をつけて2連勝。この後は、同じ南関東の大井競馬場や川崎競馬場へ参戦を考えていたが、直後に後ろ脚の球節を骨折が判明。その症状は、競走能力を維持できるかどうかの瀬戸際となるほどの重傷、「一度命を諦めたほど」(伊藤明信)だったが、石坂は競走馬引退させなかった。完治を目指して藤本牧場で放牧に出され、1年以上戦線を離脱した。 戦線離脱中、有限会社有匡の設立メンバーの片割れで、実質的な所有者ではない藤本が、トロットサンダーの中央競馬移籍を検討するようになった。藤本は、まず浦和の津金澤への相談なしに、JRAの調教師相川勝敏と所属厩務員矢作忠永へ移籍、転厩の約束を取り付けてしまっていた。6歳となった1994年5月23日、15カ月ぶりに復帰したあやめ特別を4馬身差の勝利。復活したトロットサンダーを目の当たりにした津金澤の様子を、井口民樹は「目頭が熱くなるほどうれしかった」と伝えている。津金澤はこの後、重賞の浦和記念出走へ思いを巡らせていたが、水面下でまとまっていた中央競馬移籍話をここで初めて聞かされたという。ほどなくして、トロットサンダーは、津金澤厩舎を退いた。藤本は、トロットサンダーを所有していた有限会社有匡の代表石坂から「購入した」と吹聴、まもなく藤本名義でJRAの競走馬登録を実施した。美浦トレーニングセンターの相川厩舎に入厩し、矢作が担当厩務員となった。夏の北海道に遠征し、滞在中に後の主戦である横山典弘と初コンタクト。横山はこの時「GIとまでは言えないけど、オープンで走れるし、GIIIくらいは勝てる馬」であると感じたという。 7月17日、札幌競馬場の日高特別(900万円以下)で中央デビュー。初めての芝コース参戦となった。スタートでうまく出られず、道中の不利もありながら、半馬身差の2着となった。その後は、両前肢内側の橈骨に骨膜炎が生じて4か月休養。12月4日、中山競馬場の美浦特別(900万円以下)好位追走からクビ差抜きん出て、中央初勝利を挙げた。それから年をまたいで7歳となった1995年1月21日、初富士ステークス(1500万円以下)を中団から抜け出し、2馬身差の2連勝とした。3月12日には、中山記念(GII)で重賞初出走を果たすも7着で、初めての着外負けとなった。5月、東京競馬場の府中ステークス(1500万円以下)で勝利し、再び準オープンクラスを突破した。その後、重賞戦線に参戦するも、7月の札幌記念(GIII)7着、8月の函館記念(GIII)7着、10月8日の毎日王冠(GII)3着と連敗。オーナー側は秋の目標を天皇賞(秋)としていたが、相川ら厩舎側がマイルへの適性を見出したことで、マイルチャンピオンシップを目指すことになった。一旦格を落としてアイルランドトロフィー(OP)に出走。弥生賞2着の経験があるエアチャリオットに3馬身差をつけて、オープン競走初勝利を挙げた。
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