鄧小平の時代
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1978年12月 - 中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で改革開放路線を決定、鄧小平が最高実力者に。 1979年1月 - アメリカと国交正常化。アメリカでは台湾関係法が成立。ベトナムがカンボジアに侵攻したことに対し、人民解放軍がベトナムに侵攻。(中越戦争) 1989年3月 - チベット人と武装警察隊、人民解放軍が衝突。6月4日 - 六四天安門事件発生。趙紫陽総書記が失脚。
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鄧小平の時代
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1978年より始まる鄧小平時代以降の中華人民共和国は、鄧小平理論に基づいて政治体制は中国共産党による一党体制を堅持しつつも、市場経済導入などの改革開放政策を取り、中華人民共和国の近代化を進めた(中国特色社会主義)。中ソ対立の文脈の中で、1978年12月にカンボジア・ベトナム戦争によってカンプチア救国民族統一戦線とベトナム人民軍が民主カンプチアに侵攻し、1979年1月に中国が支援するカンボジアのポル・ポト政権を打倒すると、1979年2月には親中派の民主カンプチアを打倒した親ソ派のベトナムに侵攻した(中越戦争)。その後もソ連派のベトナムとの関係は悪く、1984年には再びベトナムと中越国境紛争を戦い、1988年にベトナム支配下のジョンソン南礁を制圧した(南沙諸島海戦)。 1980年代以来の経済の改革開放の進展により、「世界の工場」と呼ばれるほど経済が急成長した。一方、急激な経済成長とともに貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。また政府は、中華人民共和国の分裂を促すような動きや、共産党の一党体制を維持する上で脅威となる動きに対しては強硬な姿勢を取り続けている。1989年の六四天安門事件での対応などはその一例である。当時のソビエト連邦(ソ連)ではミハイル・ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカにより、経済の自由化のみならず、政治の自由化まで推し進められようとされていたが、鄧小平の自由化は、経済に限定されていた。1985年にゴルバチョフが北京を訪れた際、世界はゴルバチョフを賞賛するとともに、鄧小平の改革開放路線を中途半端なものとして批判した。この空気は、国内にもくすぶり、共産党員の中にも「政治開放が必要」との声も上がるほどであったが、その延長線上で民主化要求の大規模な政治運動である六四天安門事件が起こる。なお、フランス留学歴のある鄧小平は、包玉剛を通じて香港上海銀行と関係していた。
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