鄧小平の完全復活と「二つのすべて」の否定
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「二つのすべて」の記事における「鄧小平の完全復活と「二つのすべて」の否定」の解説
このような状況の中で、翌1978年5月、当時、党の理論研究の場である中国共産党中央党校の副校長を兼務していた胡耀邦が、南京大学の哲学教授である胡福明の論文「実践こそ真理を検証する唯一の基準である」に目をとめた。そして、これを特約評論員の名前で、まず『光明日報』に、次いで『人民日報』と『解放軍報』に掲載させ、毛沢東思想の見直しの問題を提起した。「二つのすべて」派は、これを「毛沢東思想の旗をたおすもの」として攻撃したが、鄧小平にとっては「二つのすべて」派に逆襲するための絶好の理論的根拠を用意するものであった。 ここから彼は、大きくは国全体の脱毛沢東化を進め、直接的には自らを「毛沢東に批判されて失脚したが、誤りを認めて復活を許された幹部」という受け身の立場から脱出させ、政治の主導性を奪還する闘いを始めたのであった。ただし脱毛沢東化といっても、正面から毛沢東を批判するものでなく、あくまで「正しい、全体としての毛沢東主義を守れ」という前述華への手紙の論旨に沿ったものであった。しかし、その後表現はより直截的なものになる。 6月の「全軍政治工作会議での演説」で鄧は、「もしわれわれが過去のいくつかの文献の一字一句をなぞるだけであったら、いかなる問題も解決できない。まして正しく解決するなど及びもつかない。それでは、たとえ口で毛沢東思想を擁護するといくら言ったとしても、実際は毛沢東思想に反するだけである。」として、「二つのすべて」派を攻撃した。このような攻撃は半年余りつづくが、「二つのすべて」派は無視を続けた。まさにその時期、文化大革命による無数の迫害、冤罪といった悲劇を受け、生産の停滞、生活苦にあえぐ境遇の民衆が壁新聞(大字報)やガリ版雑誌、パンフレットなどで声を上げ始めた。これらの声の多くは、文化大革命における冤罪の取消しを求めるもの、政治の民主化を要求するもの、各地の幹部の不正行為を糾弾するものであった。 鄧小平の闘いが党中央工作会議から党11期三中全会へとクライマックスを迎える同年11月から12月にかけて、これらの民衆の声は彼にとって心強い味方となった。会議出席のために北京に集まった地方の幹部は、当時「民主の壁」と呼びならわされていた、西単(シータン)交差点(北京の繁華街である)近くのバス駐車場の長い外壁に貼られた大量の壁新聞と、それに群がる市民と市民によって繰り広げられる討論の輪を目にし、時代の変化を感じ取った(北京の春)。それは会議の方向に大きく影響した。鄧小平の3度目の失脚原因となった第一次天安門事件も、民衆の要求を容れる形で、12月に完全に名誉回復された。 こうして後に「改革開放の起点」とされる中共第11期三中全会では、華国鋒ら「二つのすべて」派は力を失い、「思想解放、実事求是」(事実に即して真理を求める)を掲げる鄧小平の指導権が確立された。この歴史的決定の舞台は、北京中心部の西にある軍事宿泊施設であり、人民解放軍総後勤部所属のホテルである「京西賓館」である。会議の行われた第一会議室には、この歴史的決定を行ったというプレートが掲げてある。
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