鄧小平体制の下で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 09:57 UTC 版)
1978年12月の第11期3中全会で名誉回復され、1979年9月の第11期4中全会において中央委員として復活。その後、広東省党委員会第二書記、広東省副省長、広州市党委員会第一書記、革命委員会主任、広東省軍区第一政治委員兼軍区党委員会第一書記を歴任し、鄧小平の改革開放政策を支える。1980年3月、全国人民代表大会常務委員会副委員長兼秘書長に選出される(1983年6月まで)。1981年7月、党中央軍事委員会常務委員兼秘書長に任命される。1982年9月の第12期1中全会で政治局委員、党中央軍事委員会常務副主席兼秘書長に昇進。1983年6月、国家中央軍事委員会が設置されるとその副主席を兼任する。1988年4月8日、第7期全人代第1回会議において国家主席に選出された。 1989年の第二次天安門事件では、鄧小平と党総書記である趙紫陽の間を取り持とうと奔走する。同年5月、ソビエト連邦共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフが訪中した際、趙紫陽は第13期1中全会において「重要問題は鄧小平に決定権がある」と決議されたことをゴルバチョフに明かしたため、鄧小平と趙紫陽の関係が決裂してしまったが、楊尚昆は趙紫陽が総書記を続投するように説得した。また、同時期に北京の天安門広場で展開されていた民主化デモに対して、共産党指導部は武力弾圧を検討したが、楊尚昆は当初、武力の行使には批判的で、鎮圧を回避しようとした。しかし、50年来の知己である鄧小平の決意が固いと知ると反対せずに従った。中央軍事委員会主席である鄧小平に代わって、中央軍事委員会副主席である楊尚昆が武力行使の実行責任を担い、国家主席としての権限で戒厳令を発令した。楊尚昆の甥が北京軍区所属の第27集団軍を指揮してデモを鎮圧した。 事件後の1989年11月に開催された第13期5中全会において、失脚した趙紫陽に代わって党中央軍事委員会第一副主席に昇格し(その後、国家中央軍事委員会第一副主席を兼任)、弟・楊白冰と共に自身に近い将軍を抜擢させるなど中国人民解放軍における影響力を拡大させる。江沢民への権力委譲を進める鄧小平にとって、楊兄弟の軍での権勢は看過できないものとなっていった。鄧小平に引退を迫られた楊尚昆は1992年10月の第14回党大会で政治局委員の退任を余儀なくされ、続く第14期1中全会で中央軍事委員会から事実上追放された。同時に楊兄弟派閥の軍幹部も辞任に追い込まれ、軍内の楊兄弟の影響力が一掃された。1993年3月27日、楊尚昆は国家主席・国家中央軍事委員会第一副主席を退任し、政界を引退。 1998年9月14日、病気のため北京で死去。
※この「鄧小平体制の下で」の解説は、「楊尚昆」の解説の一部です。
「鄧小平体制の下で」を含む「楊尚昆」の記事については、「楊尚昆」の概要を参照ください。
- 鄧小平体制の下でのページへのリンク