鄧小平時代から後鄧小平時代まで(1978年 - 現在)
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「中華人民共和国の歴史」の記事における「鄧小平時代から後鄧小平時代まで(1978年 - 現在)」の解説
鄧小平は、政治体制は共産党を堅持しつつ、市場経済導入などの経済開放政策を取り、近代化を進めた。 1979年、カンボジアで大量虐殺を行い、ベトナム国境で紛争を起こした民主カンプチア政権を倒すためにカンボジア内戦にベトナムが介入、ポル・ポト派をカンボジアから追い出した。それに対し、ポル・ポト派を支援していた中国政府は、懲罰行為として10万人の陸上兵力により、雲南省などからベトナム北東部へ侵攻しベトナムと戦争を開始した(中越戦争)。しかしベトナムの予想外の反抗に合い、大損害を出し撤退した。南沙諸島、西沙諸島の問題と絡んで中越関係は冷え込んだ。1988年にベトナム支配下のジョンソン南礁(中国名:赤瓜礁)を制圧する(スプラトリー諸島海戦(赤瓜礁海戦))。 1989年には北京で、民主化を求める学生や市民のデモ(六四天安門事件)が起きた。しかし、これは政府により武力鎮圧された。その一連の民主化運動の犠牲者数は中国共産党政府の報告と諸外国の調査との意見の違いがあるが、数百人から数十万人に上るといわれている。 天安門事件後の1990年代には、江沢民政権のもとで、鄧小平路線に従い、経済の改革開放が進み、「世界の工場」と呼ばれるほど経済は急成長した。ただ、急激な経済成長に伴う貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。また、政治の民主化も進んでいないとする国内外からの批判も根強い。 政府は、中華人民共和国の分裂を促すような動きや、共産党の一党体制を維持する上で脅威となる動きに対しては強硬な姿勢をとり続けている。1989年の六四天安門事件への対応や2005年の反国家分裂法成立などはその一例である。当時ソ連ではミハイル・ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカにより、経済の自由化のみならず、政治の自由化まで推し進められようとされていたが、鄧小平の自由化は、経済に限定されていた。1985年にゴルバチョフが北京を訪れた際、世界はゴルバチョフを賞賛するとともに、鄧小平の改革開放路線を中途半端なものとして批判した。この空気は、国内にもくすぶり、共産党員の中にも「政治開放が必要」との声も上がるほどであったが、その延長線上で民主化要求の大規模な政治運動による六四天安門事件が起こる。しかし鄧小平は、天安門広場に集まった学生に戦車と銃を向け「経済は開放しても、共産党独裁は変えない」という強いメッセージを示した。 ソ連が崩壊したのは、その2年後の1991年である。国家の維持と繁栄という視点からすれば、鄧小平の選択はゴルバチョフを凌駕したといえる。その後、経済の開放を強力に推し進めた結果、国民の生活水準は大きく飛躍した。今でも、沿岸都市部と内陸農村部での経済格差は大きなものがあるが、内陸部の農村の生活は王朝時代から貧しく、電気も水道もない生活を近年まで続けてきたため、現在はその当時に比べれば雲泥の差のある生活を行うにいたっている。このため、都市部との格差が大きいからといって、その格差を糾弾する強い意識は生まれてはこない。昨今、市場経済を至近に見るにつけ、民主化すればするほどに、貧富の差がなくなるどころか、拡大してゆく現実を国民は知ってしまった。このため、かつての「民主化要求」はもはや革命の動機にはなっていない。 しかし、改革開放が進んだ2000年代に入ると、貧困層の暴動・抗議デモが多発するようになった(2006年において年約9万件)。中国の貧困層は総人口13億人のうち8億人とされる。彼らは食べるのに精一杯で医療費すら払うことができない。また、この頃になると官僚の腐敗も急速に進み、汚職だけでなく、共産党幹部が自分の所持している工場で人民を奴隷として働かせていた事例もあった。更に、建設された工場の杜撰な運営によって起きている汚染された排水や排煙などの問題で、企業や地元当局と住民との間での抗議デモや小競り合いも顕在化している。胡錦濤と温家宝などによって構成される中国指導部は官僚の腐敗については厳しく対処しているもののそれでも腐敗は進む一方で、経済格差は広がる一方である。こうした点から中国当局が有効な手立てを打てなければいずれ中華人民共和国がソビエト連邦同様崩壊するのは時間の問題との見方もある。「古き良き毛沢東時代へ戻ろう」という主張も一部で支持を集めている。引退した中国の核心的ブレーンや複数の共産党幹部は「動乱は必ず起こる。そう遠くない将来にだ」と発言したとされ、体制内の人間たちも現在の中国に危機感を抱いていることが明らかとなった。 また、中国は共産党体制を維持するために軍備増強を強力に進めるようになった。これについては、増大する社会不安の中、指導部がクーデターを起こさせないように軍を手なずけるためだとの見方がある。 中華人民共和国は「中国」として1997年にイギリスから香港を、1999年にポルトガルからマカオを返還された。 2000年代に入ると、靖国神社問題、東シナ海ガス田問題、上海総領事館員自殺事件など反日活動が顕著化し、2008年の北京オリンピックでは、チベットで暴動が起こるなど内外で中国に関係する事件が多発した。 2010年9月7日、尖閣諸島で中国漁船が海上保安庁の船に衝突し、中国漁船の船長を逮捕するが、中国側は事件発生の日から5回にわたって北京駐在の丹羽宇一郎大使を呼び出すなど、日本側の措置に強硬に抗議、9月24日、船長は日中外交に配慮した民主党政権下の日本の政治的判断にて釈放された。しかしこれにより中国側は日本への強硬姿勢をかえって強め、暴徒化した民衆による日本企業などへの破壊行為が中国各地で発生した。 2011年に入り、中国の全国紙「光明日報」が、地方政府が行政満足度を水増ししているという疑惑を暴露する記事を掲載、「人民日報」も、地方政府が中央政府を無視して好き勝手な政策を行っていることを厳しく批判する記事を掲載した。これは一昔前の中国では考えられなかったことであるとされ(言論の自由が存在しないことによる)、評論家の石平は、「メディアと政府の関係が従来通りの「一心同体」ではなくなったことの証拠」「『政府がけしからん』と言うのが一種の風潮となった暁には、体制そのものの崩壊もそう遠くないのであろう」と評している。また、石平は、「新聞が政府批判を盛んにやるようになった背景には、党と政府の支配からはみ出しつつある市場経済とネット世論の発達がある。市場経済は生まれつき政治的支配を嫌うものであるし、ネット上の自由奔放な批判は従来のメディアのあり方にも多大な影響を及ぼしている。日に増して高まる民衆の不満はもはや無視できない段階に来ていることも大きな要因であろう」と現在の中国が抱えている矛盾を指摘している。 この石平の評論から間もない1月24日、温家宝国務院総理が北京にある国民の陳情を受け付ける国家信訪局を訪問し、陳情者の切実な訴えに直接耳を傾けた。総理が陳情を聞くことは中華人民共和国が建国されて以来初めてのことである。温は対策を取ることを約束した。これは、現在の中国の社会矛盾の深まりによる国民の不満や鬱積の高まりを首脳部が無視できない状況にまでなっていることを示すひとつの根拠である。更に、2011年2月にエジプト革命が起き、これを賞賛し、「次は中国の番だ」「独裁が倒れる」「中国人民もこのような日が来ることを期待している」「中国の自由な未来(実現)に協力してくれたムバラク氏に感謝する」などという内容の書き込みがインターネット上の電子掲示板で相次いだ。中国当局は報道統制、情報統制を強め、火消しを進めると同時に、中華人民共和国外交部公式サイト上に、「いかなる時も人民の利益は何にも勝る」という異例の記事を掲載した。 ただ、2011年現在の中国国内では、民主化を求める勢力は経済的に比較的裕福で、かつ高い教育を受け、政治に対する関心が高い層のみであると言われており、大多数の中国国民は民主主義よりも、食べて行くだけで精一杯な現在の生活状況の改善を強く望んでいると言う見方もある。 胡錦濤が退任し、名実ともに習近平の新時代に入ると、中国の外交姿勢に悪い意味で変化が現れたことを指摘する声が多くなった。鄧小平は、経済発展を優先させるため日本を含め諸外国との対話には低姿勢で臨むこと(「韜光養晦」)をポリシーとし、それは鄧小平以降の各指導者に受け継がれてきたように見える。ところが、習近平の時代に入り、中国は軍の大幅な軍備増強に成功したため、もう遠慮する必要性はなくなったと指導部が判断し、尖閣諸島問題などで、日本に対し武力衝突も辞さない姿勢を見せるなど高圧的な態度を取るようになった。
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