鄧小平と同原則
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1950年代後半の大躍進政策以降、中国は短期の内に共産主義社会へ移行することを目指して革命建設を推進してきたが、プロレタリア文化大革命が終結した後の1978年末に開催された中国共産党の11期3中全会で、こうした方針は極左路線と批判された。同会議以降、党は急進的な革命路線から穏健な経済建設路線へと転換し、国内経済の活性化と対外開放に重点をおいた「改革開放」政策を推進した。この政策により同時に、民主化要求も高まることになる。1978年秋の「民主の壁」が代表例であるが、その中には、当時『探索』誌の編集長であった魏京生による「第五の近代化=政治的民主化」を求める主張のように、共産党独裁体制そのものに抵触する内容も少なくなかった。このとき鄧小平は、積極的に思想の開放を呼び掛けたため、彼らは鄧小平待望論を強めていた。11期3中全会を通じて、鄧の台頭は現実のものとなっていただけに、民主化への期待も膨れ上がっていたのである。しかし、1979年3月に入ると、まさにその鄧の号令により、この民主化要求は弾圧・封じ込めにあった。1月より開かれていた中共中央理論工作会議の締めの会議において、鄧は「四つの近代化」のためには「四つの基本原則」を堅持しなければならないと力説したのである。鄧はここで民主化を要求する人々を社会主義、共産党指導の転覆を図る「反革命分子、悪質分子」と露骨に非難し、断固とした態度が必要であると主張した。この提起は、一方で鄧自身が華国鋒党主席を追い落とす過程で党内基盤を固めるために、民主化に不安感を抱く党内左派、中間派を取り込むという政治的配慮が見え隠れしている。しかし他方、鄧自身のプラグマティックな信念として、経済建設を進めていくには政治的安定が不可欠であり、中国では党の指導、核心思想の安定が重要であるという強い認識があった。
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