「韜光養晦」路線のゆらぎの背景
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「韜光養晦」の記事における「「韜光養晦」路線のゆらぎの背景」の解説
日本の研究者の間では、「韜光養晦」路線のゆらぎあるいは変化の背景として、以下のような要因を挙げる見解が存在する。まず、新藤後掲書は、鄧小平の「韜光養晦」戦略以降の外交戦略と中国の官僚制政治モデルの力学との関係に着目すべきとする。すなわち、冷戦終結後、グローバル通商大国化の中で芽生え始めた中国政策決定コミュニティ内の海軍力拡大路線と海軍力限定路線との潜在的対立が、国際関係の動きと連動し合う力学が、「韜光養晦」戦略以降の外交戦略に関連し合っていたとする。2000年代中葉に、江沢民政権下、「和平崛起」論(平和的装いの下で大国として積極的外交を求める自己主張的な外交論)の台頭で揺り戻しを見せた。その揺り戻しが、2000年代後半以降、胡錦濤政権下で後退を余儀なくされ、平和的発展と協調外交を軸とした「調和(和諧)外交」路線へと、再度の軌道修正をはかった。中国外交の微妙な揺れの繰り返しである。その「ぶれ」がグローバル通商大国化への変貌と符合して、いま人民解放軍の軍官僚制利益を後ろ盾としながら、海軍力近代化とグローバル軍事外交戦略化の展開に乗り出している。その展開が今日、対外特に対日関係の展開と相関し合って、対外危機の勃発を期に排外的ナショナリズムの台頭を促している。また、清水後掲論文は、強硬路線は中国人民解放軍がリードしていると見ている。その代表例を2010年3月に起きた韓国海軍哨戒艦沈没事件を北朝鮮の魚雷攻撃と断定したアメリカと韓国が、事件現場の黄海で計画した合同軍事演習を中国軍が阻んだことにみる。当時、政府の態度表明に先立ち、軍人が中国メディアに盛んに登場し、「中国の玄関先に米空母が侵入するような軍事演習に反対する」という意見を広めた。これを受けインターネットには軍人の発言を支持する意見が広がった。こうした動きに対し、中国外交部高官は「軍が外交に口を出すべきでない」との憂慮をもった。しかし、それを公然と口に出すのはタブーであった。中国外交界の重鎮である呉建民は、軍人のメディアへの登場を戒める発言をしたが、逆にインターネットで「売国奴」と激しく攻撃された。中国革命を導いた毛沢東や鄧小平の時代と異なり、江沢民、胡錦濤という軍歴のない指導者が中央軍事委員会主席に就任してから、軍人をいかに統制し服従させるかは常に問題だった。中国革命の時代、紅軍は中国共産党に任命された政治委員と指令員がそれぞれ部隊の指揮権を持つ独特の文民統制を行ってきた。しかし建国後は、部隊を構成するメンバーは全て職業軍人となり、待遇や装備などで独自の利害を共有することになった。結局、江沢民や胡錦濤は20年以上連続で国防費を10パーセント以上増額させたり、将官の昇進を乱発したりするなど、軍の主張や要求に迎合することで最高指導者の地位を保つことに腐心してきた。このような国防費の増額や待遇、装備の充実を指導部に迫る軍隊に対し、指導部は文民統制の徹底を欠いたままで、さらにナショナリズムを高めた民衆の支持が相まって、中国の対外強硬論を助長しているとする。特に胡錦濤の後継者となった習近平は第17期政治局常務委員で唯一国防文官の経歴を有したために軍部を後ろ盾にしており、当初から「中華民族の偉大なる復興」を掲げてナショナリズムに訴え、「強軍」を中国共産党の規約に盛り込んでアメリカに次ぐ世界2位の規模の国防費を投じて軍備増強を推し進め、自ら設立した中央軍民融合発展委員会(中国語版)の主任も兼務して富国強兵の策としてアメリカの軍産複合体をモデルに軍需産業の育成を強化し、「韜光養晦」路線を覆したとも評された。
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