ナショナリズムの台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 06:59 UTC 版)
「クリミア戦争」の記事における「ナショナリズムの台頭」の解説
19世紀中頃に、ナポレオン以後のヨーロッパ社会に比較的長期の安定をもたらしたウィーン体制が各国の利害関係の複雑化などから揺らぎ始めた。やがて広大な領地に異なる文化や宗教を唱える民族を多数抱えるオスマン帝国のような多民族国家では、被支配民族を中心にナショナリズムが台頭するようになった。 中でもボスニアやヘルツェゴヴィナは、民族的にはスラヴ系でも宗教的な支配層はムスリムであり、そして被支配層はキリスト教徒が多数であったため、また工業化がほとんど進んでいないこの地域では人口の大多数が封建領主に搾取される貧農であったため、たびたびセルビアやモンテネグロの反オスマン運動の宣伝に使われた。 オスマン帝国は、近代化よりもまずはこの地方の安定化を優先させる事を意図して、キリスト教徒の被支配層にある程度の平等を宣言して税制の公正化を図るなど、問題の解決に奔走していた。しかし、1848年からの一連の革命を機に起こした運動が失敗したために、農奴状態の農民がさらに悲惨な状況に追い込まれることを危惧したオスマン帝国は、不安定ではあるが再び支配権が確立された後に、この地域への農業改革(自作農化)を求めた。これに対して支配層のムスリム貴族たちが反対したために、オスマン帝国は1850年にドナウ方面軍司令官オメル・パシャを派遣して反対派をサラエヴォから追い出して一時的に秩序の回復に成功するが、蜂起した農民の武装解除には至らなかった。 ロシアとオスマン帝国の直接の対立の発端となったのは、オスマン帝国が支配していたエルサレムをめぐる聖地管理問題であった。フランスのナポレオン3世が個人的な名声を得るために国内のカトリック教徒におもねって聖地管理権を獲得すると、正教会を国教とするロシア皇帝ニコライ1世がこれに反発した。ロシアは正教徒の保護を口実にしてオスマン帝国全土に政治干渉し、これがモルダヴィアとワラキアへの兵力投入につながっていった。
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