ナショナリズム論
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高度資本主義の進展につれて国民国家の統合枠が溶解のプロセスに入った日本の状況下では『国家の物語=国史』とは言えなくなっており、また、世代間どころか世代内ですら歴史の共有が不可能になった現在、私達にとって可能な、しかも意義ある歴史伝承の鍵は、「『公教育における国史=正史の正当化』などではなく、『私史=稗史』 がいきいきと語り継がれるローカルで多元的な共同体の探求にこそあるのではなかろうか」と述べている。 小林よしのりは、すべての死が無意味だとすれば、生のみにしか価値が認められず、ひたすら生を永らえることを願うニヒリズムに帰してしまう、という。それに対して宮崎は、「死の無意味さを直視してはじめて、何の利害得失にも拘らない真の『善き生』を生き得るのではないか」と言い、「もし特攻隊員が死後の顕彰を期していたとすれば、彼らはなお現世的価値(利害得失)を基準にしていたことになる」。そして、「彼らの死が――あらゆる死と同様に――世俗的な意味や価値に還元できない『犬死に』だからこそ、あえてその道を選んだ姿が、私達の心魂を打つのではないか」としている。 また、1997年のルワンダで、ジェノサイド実行者の残党が寄宿学校を襲い、10代の女子学生17人を捕らえ、少女たちにフツ族とツチ族に分かれるよう命じたところ、彼女らは「自分たちはただルワンダ人である」とこれを拒み無差別に射殺された話 を紹介し、「一見、単なるナショナリズムの発露のようにみえる」がその裏で、「死の虚無を見据えながらも、『偶然にくる或る不幸』(藤田) を事もなげに引き受けてしまえる意思が働いている」ことを看て取り、「これこそがナショナリズムに内在しつつ、ナショナリズムを超える自由の可能性ではあるまいか」と述べている。
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ナショナリズム論
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「ショーヴィニズム」の記事における「ナショナリズム論」の解説
1945年、政治思想家のハンナ・アーレントは、ショーヴィニズムの概念を次のように説明した。 ショーヴィニズムは、「ネイションの使命」という古い発想から直接生じてきたという意味では、ネイション概念のほとんど自然な産物である。(中略)(ある)ネイションの使命とは、何らかの理由でそのネイションの使命を持たず奇跡的に歴史から取り残された他の比較的不幸な民族に、光を与えるもの、と解釈するのが正確であろう。この概念がショーヴィニズムというイデオロギーへと発展せず、国家の領域やナショナリズム的プライドさえも比較的漠然としたものにとどまっている限り、それは取り残された人々の福利に対する責任という高い意識につながることが多かった。
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