主な論者とその所説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 09:08 UTC 版)
佐藤優の「民族とナショナリズム」論 佐藤優は、「世界史上の民族問題とナショナリズムに効率的にアプローチする」ためには、「オーストリア・ハプスブルク帝国を中心とした中東欧」と、「ロシア帝国の民族問題」に「注目すべき」とし、その理由として「まず、民族という概念が根付いたのは中東欧」であり、「ロシア帝国の民族問題」が「民族問題の複雑さを知る上で適切である」とする。そして「ナショナリズムとはそもそも何かを解説」するにあたっては、「これだけは押さえてほしい」と考える「ナショナリズム論」として、ベネディクト・アンダーソン、アーネスト・ゲルナー、アンソニー・D・スミスの三人を挙げる。佐藤はこの三人を「ナショナリズム論の三銃士」、「三人の知的巨人」とも評価する。 「原初主義」と「道具主義」 原初主義 民族には言語、血筋、地域、経済生活、宗教、文化的共通性などの根拠となる源が具体的に存在する、という考え方。 道具主義 民族はエリートたちによって創られる(国家のエリートの統治目的のために、道具としてナショナリズムが利用される) ベネディクト・アンダーソンの議論 アンダーソンは"道具主義"の代表的な論者。 「国民」というのはイメージとして心に描かれた想像の共同体。 「国民意識」というのは、自分たちは同じ民族だというイメージをみんなが共有することで成り立つ。 「同じ民族だ」というイメージの共有ために、「標準語の使用」を強調する。 「標準語」は出版資本主義によって作られる。「出版用の言語」が作られ、それが国語や標準語というシステムになってゆく。 民族とは想像された政治的共同体(想像上の存在)であり、小説や新聞が大きな役割を果たす。 支配者層や指導者層が、上から「国民」を創出しようとするのが公定ナショナリズム。 アーネスト・ゲルナーの議論 「道具主義」の代表的な論客のひとり。 ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である。 ナショナリズムの思想があってナショナリズムの運動が生じるのではなく、ナショナリズムの運動があってナショナリズムの思想が生じる。 その結果、「民族」・「国民」と訳されるネイションが生まれてくる。 民族が最初にあってナショナリズムが生まれるという原初主義的な通念は誤りで、ナショナリズムという運動から民族が生まれる。 民族という感覚は近代とともに生まれてきたという考え方をとる。 以下の4点は誤った見方である。 ナショナリズムは自明で自己発生的であるという見方。 ナショナリズムは観念の産物であり、止むを得ず生まれたものであるため、なくても済むものである(→ナショナリズムは近代特有の現象であるが、同時にそれを消去することはできない)という見方。 マルクス主義者は、労働者階級に「目覚めよ」とメッセージを送ったが、民族に届いてしまったことについて「宛先が間違った」と弁解している件。 ナショナリズムは、先祖の血や土地から「暗い力」が再び現れたものだという見方。 ナショナリズムを近代特有の現象と考える理由 産業社会でなければ人々の文化的同質性が生まれない。 産業社会になると、人々は身分制から解放され、移動の自由を獲得するので社会に流動性が生まれる。 流動化した社会では見知らぬ者どうしがコミュニケーションをする必要がでてくる。そのためには普遍的な読み書き能力や計算能力といったスキルを身につけることが必須となる。そういった教育を与える主体は国家しかない。 一定の教育を広範囲に実行するには国家が必要。国家は社会の産業化とともに教育制度を整え、領域内の言語も標準化する。このような条件があって、広範囲の人々が文化的な同質性を感じることができる。 産業化によって流動化した人々の中に生まれてくる同質性がナショナリズムの苗床となる。 アンソニー・D・スミスの議論 スミスは、近代的ネイションを形成する「何か」があると考える。 この「何か」をあらわす概念が、古典ギリシア語の「エトノス」もしくは現代フランス語の「エトニ」である。 「エトニ」とは、「共通の祖先・歴史・文化をもち、ある特定の領域との結びつきをもち、内部での連帯感をもつ、名前を持った人間集団である」と定義される。 近代的なネイションは、必ずエトニを持っている。(エトニが存在しないところに、人為的に民族を形成することはできない。 しかし、エトニを持つ集団が必ずネイションを形成するわけではない。そのごく一部がネイションの形態をとるのであり、ネイションが自前の国家を持つことができる場合はさらに限られる。 エトニという概念が、歴史と結びつくことによって、政治的な力が生まれる。この政治的な力によって、エトニは民族に転換する。 この場合の「歴史」は、実証性が担保されている必要(史料にもとづいた客観的な歴史記述である必要)はない。 民族の形成には、人々の感情に訴える、詩的で、道徳的で、共同体の統合に役立つ物語としての歴史が不可欠。 ネイションにはエトニという「歴史的根拠」が不可欠。
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