西洋における反オナニーの歴史
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「オナニー」の記事における「西洋における反オナニーの歴史」の解説
17世紀以前にはオナニーを罪とみなす宗教者の言説はあるが、オナニーそのものへの言及はさほど多くないともされる。西洋では「固まりミルク」と称して村の少年たちが精液の飛ばし合いっこをしていた。16 - 17世紀の主流をなしていたガレノス医学では、オナニーはむしろ奨励されていた、ともいう。ただし宗教者の中では、たとえ健康のためであっても自然に反する行為であって許されない、という意見が主流であったという。 反オナニーが人口に膾炙するきっかけになったのは、1715年に出版された『オナニア』(著者匿名)であった。同書はオナニーの有害性を道徳面よりも医学面において特に強調し、著者が独占販売権を握るというオナニー治療に効果的な薬の購入を呼びかけていることから、金儲けが同書刊行の目的だった。1760年頃には、スイスの医師ティソが De Morbisex Manustuprationeを、1764年には『オナニスム』を出版する。これは、ヨーロッパ中に名声を博していた臨床医による、医学面からの有害性を訴えた本であり、ドイツの哲学者カントは『教育学』(1803年)において自慰の有害性を主張し、またルターも有害性を主張するなど、ティソのオナニー有害論は広く影響を与えた。 反オナニーは19世紀半ばに最高潮に達する。医師である彼の「学説」によって道徳面以上に医学面での有害性が強調された。原因不明の多くの疾患が、オナニーにより引き起こされるとみなされた(くる病、関節リューマチ、肺炎、慢性カタル、視覚・聴覚の衰えなどなど)。1882年のフランスの精神病医専門誌における「二人の少女の神経障害を伴ったオナニズムの症例」というデミトリオス・ザムバコ医師による論文に、医学アカデミー会員のゲラン医師の示唆により、女性器を焼き鏝で焼却すると脅したことや、ゲラン医師が何人もの女性に、その焼却治療を施し結果を得ていたことが記されていた。 (反オナニーを含む)セクシュアリティ統制にはナショナリズムの台頭が影響している。18世紀以降の西ヨーロッパ諸国(独英仏伊)では、下層階級からも貴族階級からも自らを差別化しようとする、中産階級の価値観、リスペクタビリティ(市民的価値観)が生まれる。18世紀以降のナショナリズムは、この中産階級の作法や道徳を吸収し、全階級に広めた。その鍵になるのはセクシュアリティの統制であり、「男らしさの理想」である。ここにおいて、マスターベーションに耽るオナニストは顔面蒼白、目が落ち窪み、心身虚弱な人間と表象され、男らしい闘争や社会的達成という国民的ステレオタイプとは相容れないとされた。 またデュシェは、オナニーという私的な空間で行われる行為の禁止を通じて、私的な空間そのものを監視しようという社会の欲望を指摘している。 1939年にはカルノー医師により性教育面での言及が行われ、1968年を境に、セクシュアリティについての社会的見解に変化が起こったといわれる。
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