中国外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 07:55 UTC 版)
「ローレンス・カーニー」の記事における「中国外交」の解説
中国人から見ると、同じ英語をしゃべる白人である英国のアヘン貿易業者と米国人の区別がつかなかった。このため、1839年にアヘン戦争が始まると、中国在住の米国人は様々な困難にあった。米国人保護のため、艦隊が派遣されることとなり、艦齢42歳の老朽帆走フリゲート・コンステレーション(USS Constellation)と、帆走戦闘スループ・ボストン(USS Boston)からなる東インド艦隊の指揮をカーニーがとることとなった。カーニーに与えられた命令は、1) 米国および米国市民の中国沿岸部における資産を保護すること、2) 中国の外交・および国内政策を尊重すること、3) 米国人あるいは米国船に偽装した船での麻薬の密輸を取り締まること、であった。慎重な行動が要求されており、場合よっては、より上位の判断を得るために、数カ月間を要することも想定された。 カーニーが中国に到着したのは1842年3月であり、すでにアヘン戦争は終結しつつあった。しかしながら、米国商人は中国人からの保護と損害の賠償を求めてきた。カーニーの優先事項は米国人による麻薬の密輸を禁止することで、賠償はその次であった。カーニーはいくつかの訴えは正当なものであり、他は誇張であると判断した。この冷静な判断は、カーニーの評判を高めることとなった。清の広州総督は米国副領事に対して、「私は、最近到着した代将は、正確な理解のもとに職務を実行しており、思慮深く、かつ公正であると聞いて降ります」と書いている。広州総督は、カーニーが判断した数十万ドルの損害賠償を、米国商人に支払うことを約束した。 カーニーは香港に到着したときに、南京条約のことを知った。カーニーは条約が5つの港を英国との貿易のために開くことを約束していることに注目し、米国にも同様の権利が与えられるべきと考えた。広州総督はカーニーに清と米国が公正な通商条約を結ぶことを提案した。カーニー自身はそのような条約に署名する権利を有していなかったが、巧みな交渉を続け、在清米国特命全権公使ケイレブ・クッシングの到着を待って、1844年7月2日に望厦条約が締結された。
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