中国報道と日中関係報道(産経新聞時代)
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「古森義久」の記事における「中国報道と日中関係報道(産経新聞時代)」の解説
1998年11月から産経新聞の初代駐中華人民共和国総局長として2年余、北京に駐在した。産経新聞は柴田穂が国外追放されてから31年間、北京への特派員常駐を認められなかったが、社長・清原武彦が直接中華人民共和国に赴いて交渉した結果、98年には北京を「中国総局」、中華民国(台湾)の台北に「台北支局」を置くという形を取る ことで、北京の記者常駐を認めることになった(同時に他の日本のマスコミも同様の組織編制で台北支局を設置)。その結果、初代の産経新聞駐中華人民共和国総局長に選ばれ、中国専門記者で香港支局の山本秀也とともに赴任した。この赴任に際し古森は、「自分としては北京でも従来どおりのスタンスで国際報道を続けるが、その結果、もし中国共産党政府から非難され、国外追放というような処置を受けても、産経新聞としては構わないか」と問い、羽佐間会長より「もちろんかまわない」との返答を受けての赴任であった。 北京では、中華人民共和国の軍事力増強(中国脅威論)、人権抑圧、偽造品・模造品など知的所有権侵害許容を積極的に報道したほか、日中関係でも、日本の巨額の対中政府開発援助(ODA)の実態や中華人民共和国の“反日”の教育や宣伝の実情、日本の国会議員の中国詣で「友好」の状況などを詳しく報じた。古森の中国報道は産経新聞に長期間連載され(後に『日中再考』として単行本化)、三宅久之は「古森が日本の中国報道を変えた。」 と評し、高山正之は「古森義久氏の中国報道なんて大したものでした。北京支局に在局しながら、あれだけの中国批判を書けたのは彼しかいない」 と評した。 日本の対中ODA(政府開発援助)は国会でも批判が起き、2008年度には年来の大型有償インフラ用の対中経済は打ち切りとなったが、ODA終了後もアジア開発銀行を抜け穴としての対中援助が続いており、それがチベットなど少数民族への弾圧へと繋がっていると主張している。古森は著書『日中再考』で中国共産党政府の日本帝国主義への深い恨みと激しい怒りを生徒の胸に刻ませようとする教育、例えば「南京大虐殺の時間的経過と日本軍に殺された中国軍民の人数を生徒に覚えさせよ」という歴史教育を紹介し、秦郁彦・平沢勝栄・黄文雄 が古森の主張に言及した。 古森は著書『「中国「反日」の虚妄 』 [要ページ番号]において、中華人民共和国の国民感情なるものが同国政府の「核兵器よりも恐ろしい。」反日教育の結果であることを具体例を示しながら証明し「中華人民共和国、韓国の歴史認識がアジアでは異端である。」とし、「アメリカとの同盟関係を堅持したうえでのアジア諸国との連帯の強化こそがアジア外交の最も効果的な推進方法である」と結論づけている。 古森が主張する「中国脅威論」について、西部邁と小林よしのりは、『諸君!』(2005年2月号)に掲載された古森の著書「中国に『歴史』を突きつけよ」を引き合いに出して「日本にとっては中国の反日ナショナリズム退治にはアメリカの力を利用することも可能だということになる」が結論だとし、西部「なんどこんなバカなことを言うのかなあと、呆れるしかない」小林よしのり「アメリカ様が今、こんな風に言って下さっているんだぞと、それだけを一所懸命言っているんだよね」と批判している。
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