まんにょうしゅう〔マンエフシフ〕【万葉集】
まんようしゅう〔マンエフシフ〕【万葉集】
まんようしゅう 【万葉集】
万葉集
万葉集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 08:54 UTC 版)
奈良時代末期に成立した『万葉集』では、田辺福麻呂歌集(「過葦屋処女墓時作歌一首」9-1801~2)、高橋虫麻呂歌集(「見菟原処女墓歌一首」9-1809~11)、および、福麻呂・虫麻呂に追和した大伴家持の歌(「追同処女墓歌一首」9-4211~12)の3組が、いずれも菟原処女墓(うないおとめのはか)について詠んだ短歌として知られている。 高橋虫麻呂の本歌「見菟原処女墓時作歌一首 并短歌」と反歌を以下に挙げる。 本歌《原文》 葦屋之 菟名負處女之 八年兒之 片生之時従 小放尓 髪多久麻弖尓 並居 家尓毛不所見 虚木綿乃 牢而座在者 見而師香跡 悒憤時之 垣廬成 人之誂時 智弩壮士 宇奈比壮士乃 廬八燎 須酒師競 相結婚 為家類時者 焼大刀乃 手頴押祢利 白檀弓 靫取負而 入水 火尓毛将入跡 立向 競時尓 吾妹子之 母尓語久 倭文手纒 賎吾之故 大夫之 荒争見者 雖生 應合有哉 宍串呂 黄泉尓将待跡 隠沼乃 下延置而 打歎 妹之去者 血沼壮士 其夜夢見 取次寸 追去祁礼婆 後有 菟原壮士伊 仰天 叫於良妣 〓地 牙喫建怒而 如己男尓 負而者不有跡 懸佩之 小劔取佩 冬〓蕷都良 尋去祁礼婆 親族共 射歸集 永代尓 標将為跡 遐代尓 語将継常 處女墓 中尓造置 壮士墓 此方彼方二 造置有 故縁聞而 雖不知 新喪之如毛 哭泣鶴鴨 — 高橋虫麻呂、『万葉集』巻第九「見菟原處女墓時作歌一首 [并短歌]」 反歌《原文》 葦屋之 宇奈比處女之 奥槨乎 徃来跡見者 哭耳之所泣 ─高橋虫麻呂、『万葉集』巻第九「反歌[承前、其一]」 反歌《原文》 墓上之 木枝靡有 如聞 陳努壮士尓之 依家良信母 ─高橋虫麻呂、『万葉集』巻第九「反歌[承前、其二]」
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万葉集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 08:22 UTC 版)
「平城・相楽ニュータウン」の記事における「万葉集」の解説
万葉石碑 - 万葉歌碑をたてる会によって設置。春日なる三笠の山に月も出でぬかも 佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく(近鉄高の原駅前広場) 春日なる三笠の山に月も出でぬかも 佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく(平城第二団地18棟西側緑地) 秋さらば今も見るごと妻戀に 鹿鳴かむ山そ高野原の上(近鉄高の原駅出口) 万葉の小径 - 石のカラト古墳から押熊瓦窯跡までの約300mの散策路。東から順に万葉植物の「かつら」「はぎ」「え」「あぢさゐ」「かへるで」「つつじ」「いちし」「ははそ」「くは」「ちさ」「たへ」「あしび」「やまぶき」「くり」「しひ」「さかき」「たちばな」「かしは」「まゆみ」「つき」「うのはな」「さくら」「ほほがしは」「ねぶ」「ゆずるは」「あふち」「つばき」「つまま」「しらかし」「はねず」「うめ」「さきくさ」「もも」「すもも」「なし」「なつめ」が植えられており、小径の途中には「万葉人の時代について」「万葉人と植物との関りについて」「万葉人の衣・食・住について」「個々の植物と、万葉人の思想や生活との関りについて」の4つのテーマの説明板がある。
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万葉集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:28 UTC 版)
万葉集には防人歌が収録されている。巻13、14にも含まれているが、巻20には最も多く含まれている。巻20に採録される防人歌は、天平勝宝7年に大伴家持が収集して撰集し、手を加えた上で掲載されたものである。防人歌が集められた背景として、上代文学者の多田一臣は、防人の制度が揺らぎ始めた奈良時代中頃に、防人に関する情報収集の一環として国家的政策として行われた可能性があると指摘している。 《沖つ鳥鴨といふ船の還り来ば也良の崎守早く告げこそ》筑前国守山上憶良が防人を憐れんだ歌であり、具体的な也良という地名を詠み込んでいる。
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万葉集(まんようしゅう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:39 UTC 版)
「日本酒の歴史」の記事における「万葉集(まんようしゅう)」の解説
759年以降成立、7世紀後半から8世紀後半頃に編纂。酒に関する歌が多数詠まれており、特に大伴旅人は「讃酒歌十三首(酒を讃むる歌十三首)を残している。以下は酒の種類や作った場所などがわかる歌。
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万葉集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 19:12 UTC 版)
『万葉集』には、松浦佐用姫の歌群が収められており、そのうちの「遠つ人松浦佐用姫」にはじまる題詞の序文にこの伝説のあらましが記述される。 "悲しみのために肝も絶え、心も暗く魂の消える"ようなそのさまに周りは涙を禁じえなかったとされる。 この題詞(序文)の作者は明記されないが、登場人物の一族である大伴旅人であるという説が有力である。 歌群のうち3首(第868・869・870)は山上憶良の和歌であり、この伝説も憶良が創作したもの(とくに朝鮮出征の時代でなくとも、都人が地方の思い人と別れる体験にもとづけば十分)とする説も立てられたが、これに対し、やはりこれは松浦湾から朝鮮半島へ出兵した人の経験が根源にあるとする意見が異を唱えている。
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万葉集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 05:04 UTC 版)
統一国家が確立してゆく中で、大陸から漢詩が入ってきた影響もあり、個人の気持ちを個々に表現する歌が盛んに作られるようになった。それらを大成したのが『万葉集』である。万葉集の注記によると、万葉集以前にも『古歌集』『柿本人麻呂歌集』『笠金村歌集』『高橋虫麻呂歌集』『田辺福麻呂歌集』『類聚歌林』などがあったとされるが現存しない。『万葉集』は長い期間を経て多くの人々によってまとめられたが、最終的には大伴家持が現在の二十巻の形に編集したのだといわれている。約4500首が収められており、その最も古いものは仁徳天皇の代のものであるが、大部分は飛鳥時代から奈良時代中期にかけての約100年弱のもので占められている。貴族の歌のほかに東歌、防人歌など民衆の歌もあり、現実的、写実的な歌風が多いとされる。
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万葉集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 15:46 UTC 版)
『万葉集』には、挽歌として次の歌が見える。 「 挽歌 宇治若郎子宮所歌一首 妹らがり 今木の嶺に 茂り立つ 嬬松の木は 古人見けむ いもらがり いまきのみねに しげりたつ つままつのきは ふるひとみけむ 」 —柿本朝臣人麻呂之歌集出、『万葉集』巻9 1795番 このうち第5句の「古人」とは「故人」、すなわち菟道稚郎子を指すとされる。
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万葉集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:52 UTC 版)
『万葉集』に、九州・山陰山陽・四国の人の歌が無いのは、皇権簒奪の事実を隠すためであり、また解釈が皇国史観で歪曲されているからである。代表的歌人でありながら正体不明な「柿本人麻呂」や「額田王」等は九州倭国縁の人物である。山上憶良等も元は九州倭国の役人であったものがヤマト王権に仕えたものである。
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万葉集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/14 23:45 UTC 版)
第十四巻の東歌、「上野佐野の茎立折りはやし」に登場する。 「可美都氣野 左野乃九久多知 乎里波夜志 安礼波麻多牟恵 許登之許受登母」 「かみつけ(上野)の、佐野の茎立(くくたち)、折りはやし(湯がき)、あれ(吾)は待たむえ、今年来ずとも」とうたわれ、つれない恋人を想う少女の恋情を、春先にしか得られないかき菜の特徴にならぞらえたとみられる。現在の佐野は下野(栃木県)だが、当時は両毛地区の区分が異なり、上野(群馬県)だった。
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万葉集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/23 00:05 UTC 版)
万葉集に「倉椅(倉梯)の山」が登場するが、この山は現在の桜井市倉橋付近の山か、または倉橋付近から見える音羽山・多武峰(御破裂山)など竜門山地の山々とする説もある。 倉椅の山を高みか夜隠に出で来る月の光乏ともしき(巻3-290)- 小田事主が勢の山の歌一首 梯立の倉梯山に立てる白雲見まく欲り吾がするなへに立てる白雲(巻7-1282)- 作者不詳 梯立の倉梯川の石の橋はも男盛に吾が渡せりし石の橋はも(巻7-1283)- 作者不詳 梯立の倉梯川の川の静菅吾が刈りて笠にも編まず川の静菅(巻7-1284)- 作者不詳 なお、桜井市倉橋には崇峻天皇陵があり、また天武天皇7年(678年)には倉梯川の川上に斎宮を建てたと日本書紀巻二十九にある。
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万葉集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/15 03:39 UTC 版)
竜田山関連の万葉集は15首ある。 聖徳太子が竜田山の死人を見て作った「春三月、諸卿大夫等の難波に下りし時の歌」という長歌が巻九が有名。
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