坂上望城とは? わかりやすく解説

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さかのうえ‐の‐もちき〔さかのうへ‐〕【坂上望城】

読み方:さかのうえのもちき

[?〜975?]平安中期歌人是則の子梨壺(なしつぼ)の五人一人として万葉集訓釈後撰集撰進あたった


坂上望城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/10 03:26 UTC 版)

 
坂上望城
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 天元3年(980年8月?
官位 従五位下石見守
主君 村上天皇冷泉天皇円融天皇
氏族 坂上氏
父母 父:坂上是則
兼範、厚範
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坂上 望城(さかのうえ の もちき)は、平安時代中期の貴族歌人加賀介坂上是則の子。官位従五位下石見守梨壺の五人の一人。

経歴

生年未詳[1]。没年は天延3年(975年)説、天元3年(980年)説、貞元3年(978年)があるが、いずれも疑問とされる[1]

村上朝天暦3年(949年越前掾に任ぜられるが、天暦6年(952年西市正に遷ると、天徳3年(959年内蔵允と京官を歴任する。

康保4年(967年権少外記次いで少外記、安和2年(969年)大外記と冷泉朝から円融朝初頭には外記を務める。天禄元年(970年)従五位下・美濃介に叙任されると、天延3年(975年)石見守とその後は地方官を歴任した。

三十六歌仙の一人である父・是則と同様に和歌に優れ、天暦5年(951年)に村上天皇の命により昭陽舎に置かれた和歌所の寄人(御書所預)となり[1]、梨壺の五人の一人として『万葉集』の訓読や『後撰和歌集』の撰集にあたった[1]。『天徳内裏歌合』にも出詠している[1]。『勅撰和歌集』には『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』に1首ずつ作品が入集している[1][2]。家集は伝わっていない。

『八雲御抄』では、「茂材(もちき)、時文はただ父が子といふばかりなり」と、紀時文と並ぶ親の七光りとして酷評された[1]

官歴

注記のないものは『外記補任』による。

系譜

  • 父:坂上是則[3]
  • 母:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:坂上兼範[4]
    • 男子:坂上厚範[3]

脚注

  1. ^ a b c d e f g 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第3巻』岩波書店、1984年10月、35頁。 
  2. ^ 『勅撰作者部類』
  3. ^ a b c 「坂上系図」(『続群書類従』巻第185所収)
  4. ^ 鈴木真年『百家系図稿』巻9,東漢直

参考文献

関連項目




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