万葉集から中世文学まで
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人の手が入る以前の武蔵野は照葉樹林であったが、やがて焼畑農業が始まり、その跡地が草原や落葉広葉樹の二次林となり、“牧(まき)”と呼ばれる牧草地に転用されるなどして、平安期頃までには原野の景観が形成されたといわれている。 武蔵野の名の成り立ちは言うまでもなく「武蔵の野」ということだが、元来、武蔵国周辺のいわゆる東人たちが、みずからの住む山野を指して呼んだものであった。「武蔵野」の名が初めて史料に現れるのは万葉集で、第14巻「東歌」に彼らの詠んだ歌が編まれて残っている。 武蔵野のをぐきがきぎし立ち別れ去にし宵より背ろに逢はなふよ (万葉集 ⑭東歌 相聞 #3375) 恋しけば袖も振らむを武蔵野のうけらが花の色に出なゆめ (同上 #3376) 武蔵野の草葉もろ向きかもかくも君がまにまに我は寄りにしを(同上 #3377) (ほか数首あり) 中世になると多数の歌が武蔵野を題材として詠まれ、なかには後世までたびたび引用されるものもあった。 むらさきのひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る (詠人知らず、古今和歌集) をみなへしにほへる秋の武蔵野は常よりも猶むつましきかな (紀貫之、後撰和歌集) 行く末は空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月かげ (九条良経、新古今和歌集) 武蔵野やゆけども秋のはてぞなきいかなる風か末に吹くらむ (久我通光、新古今和歌集) 玉にぬく露はこぼれてむさし野の草の葉むすぶ秋の初風 (西行、新勅撰和歌集) むさしのは月の入るべき峰もなし尾花が末にかかる白雲 (藤原通方、続古今和歌集) めぐりあはむ空行く月のゆく末もまだはるかなる武蔵野の原 (藤原定家、新千載和歌集) 長月の霜にさえゆくむさし野のゆかりに遠きくさのもとかな (藤原定家) むさしのは木蔭も見えず時鳥幾日を草の原に鳴くらん (一色直朝、桂林集) むさし野といづくをさして分け入らん行くも帰るもはてしなければ (北条氏康、武蔵野紀行) なお、11世紀に書かれた『更級日記』(菅原孝標女)と14世紀初めの『とはずがたり』(後深草院二条)は、いずれも自叙伝というジャンルのノンフィクションだが、各作中では「馬上の人物が見えないほど」に草の生い茂った土地として武蔵野が描かれており、当時の武蔵野の実態の一端をうかがい知ることができる。 今は武蔵の国になりぬ。(中略) むらさき生ふと聞く野も、蘆(あし)・荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで高く生ひ茂りて、中をわけ行くに、竹芝といふ寺あり。 (更級日記) 八月の初めつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の景色ゆかしさにこそ今までこれらにも侍りつれと思ひて、武蔵の国へ帰りて、浅草と申す堂あり。(中略) 野の中をはるばると分けゆくに、萩・女郎花・荻・芒よりほかはまたまじるものもなく、これが高さは馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや分けゆけども尽きもせず。ちと傍へ行く道にこそ宿などもあれ、はるばるひととほりは来し方行く末野原なり。観音堂はちとひき上りて、それも木などはなき原の中におはしますに、まめやかに草の原より出づる月影と思ひ出づれば、今宵は十五夜なりけり。 (とはずがたり) 以上のように、中古から中世にかけての日本人がもっていた“武蔵野のイメージ”は、総じて「野草の野原」、のちには「月の美しい、茫漠としてどこまでもつづく原野」といったものであったと言うことができる。
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