『日本書紀』にみえる「日本府」
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「任那日本府」の記事における「『日本書紀』にみえる「日本府」」の解説
説話的要素の強い雄略8年紀をのぞくと、任那日本府は欽明2 - 15年紀すなわち西暦541年から554年の間のみにみられる。すでに金官地方は新羅に併合されていた時期なので、任那日本府に関する史料は安羅日本府についてのものだけである。 安羅日本府に関する記事は、『日本書紀』のなかでは史実性の高い部分であるので虚構のものとは考えがたい。以下、当該記事の分析結果によって、任那日本府(安羅日本府)の性格が明らかにされる。 「任那日本府」の古訓は「ミマナノヤマトノミコトモチ」すなわち「任那倭宰」であり、統治機構として整備されたというよりは、欽明15年紀の「在安羅諸倭臣等」(アラニハベルモロモロノヤマトノマエツギミタチ)が実態と考えられる。 日本府に関する記事のほとんどは百済王が主催し、加羅諸国の首長層と任那日本府の官人たちとが参画し、加羅諸国のあり方について協議する、いわゆる「任那復興会議」にかかわるものである。 日本府は強大な指導権をもっておらず、「任那復興会議」も百済王が主導する。 日本府の官人たちは、場合によってはヤマト王権の意向を無視して独自に行動する場合がある。 日本府の構成メンバーにはヤマト王権から派遣された人びとのほかに、在地の日韓混血の人物も多くみられる。
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