『日本書紀』にみえる「日本府」とは? わかりやすく解説

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『日本書紀』にみえる「日本府」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 07:36 UTC 版)

任那日本府」の記事における「『日本書紀』にみえる「日本府」」の解説

説話要素の強い雄略8年紀をのぞくと、任那日本府欽明2 - 15年紀すなわち西暦541年から554年の間のみにみられる。すでに金官地方は新羅併合されていた時期なので、任那日本府に関する史料安羅日本府についてのものだけである。 安羅日本府に関する記事は、『日本書紀』のなかでは史実性の高い部分であるので虚構のものとは考えがたい。以下、当該記事分析結果によって、任那日本府安羅日本府)の性格明らかにされる。 「任那日本府」の古訓は「ミマナノヤマトノミコトモチ」すなわち「任那倭宰」であり、統治機構として整備されたというよりは、欽明15年紀の「在安羅諸倭臣等」(アラニハベルモロモロノヤマトノマエツギミタチ)が実態考えられる日本府に関する記事のほとんどは百済王主催し加羅諸国首長層と任那日本府官人たちとが参画し、加羅諸国あり方について協議するいわゆる任那復興会議」にかかわるものである。 日本府強大な指導をもっておらず、「任那復興会議」も百済王主導する日本府官人たちは、場合によってはヤマト王権意向無視して独自に行動する場合がある。 日本府構成メンバーにはヤマト王権から派遣され人びとのほかに、在地日韓混血人物多くみられる

※この「『日本書紀』にみえる「日本府」」の解説は、「任那日本府」の解説の一部です。
「『日本書紀』にみえる「日本府」」を含む「任那日本府」の記事については、「任那日本府」の概要を参照ください。

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