『日本書紀』の日付の捏造の証明
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「小川清彦 (天文学者)」の記事における「『日本書紀』の日付の捏造の証明」の解説
日本書紀の記述中、干支のついた暦日記事は総数899件を数える。現代の学問の常識からいって、紀元前7世紀の日本にこんなキチンとした暦日がおこなわれていたとは疑わしい。もしおこなわれていたとすれば、それはいかなる暦法によっていたかが、古暦研究上の問題となる。 小川は『日本書紀』の暦法を西暦450年頃を境に以前を儀鳳暦(麟徳暦)、以後を元嘉暦と考えれば、日本書紀に記載された3箇所の平月を閏月に修正するだけで、『日本書紀』の暦日が全て解明できることに気付き、1938年頃に論文「日本書紀の暦日について」の大略を書いた。 小川の学説を要約すると、つぎのようになる。 神武天皇(西暦紀元前7世紀)以降、紀元後5世紀までの間に、「書紀」に載る月朔干支は「書紀」の編纂(完成はA.D.720年)にあたって、陰陽寮の暦博士らが、「儀鳳暦」の算法を使って古代に遡って逆算して求めた数値であり、古代の日本にそのような暦が行用されていたわけではなかった。 儀鳳暦は本来「定朔法」(日月の天球上運動をそれぞれ不等速とする)をとる暦法であるが、「書紀」編纂当時の暦算家は逆算の手間をはぶくために、より簡単な「経朔法」(日月の天球上運動をそれぞれ等速と仮定する)を採用して算定した。 紀元5世紀以降の暦日の編纂に当たっては、紀元6世紀に輸入されていた元嘉暦の算法を使って算定した。元嘉暦はもともと経朔法による簡単な算法による暦法である。 上記のような2種類の暦法を使い分けしたと設定すると、「書紀」に載っているすべての月朔干支は上記暦法の結果と一致する。ただし、3件だけは月名の前に「閏」字を補う必要がある。これは「書紀」成本の際に誤って閏字が脱落したのであろう。 儀鳳暦は元嘉暦よりも新しい暦法である。つまり、日本書紀の暦日のうち古い時期(西暦450年頃以前)のものは新しい儀鳳暦によって記述され、新しい時期(西暦450年頃以降)の暦日は古い元嘉暦によって記述されたことになる。これは日本書紀の暦日が2つの異なるグループによって記述されたことを強く示唆する。したがって、小川の学説が明らかになれば『日本書紀』に記された暦日が後世になって捏造されたことが明確になることから、当時の皇国史観と抵触する可能性があったために天文台の平山清次教授などにより発表を断念させられた。 第二次世界大戦敗戦による皇国史観崩壊によって、1946年8月にようやく「日本書紀の暦日について」をガリ版刷り40ページの私家版でわずかな関係者に配り、評判を得る。正式な発表を勧められた小川は「日本書紀の暦日について」を元にした論文「日本書紀の暦日の正体」を執筆するが、結局発表されることのないまま1950年1月10日に没する。
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