『日本書紀』巻第二 神代下 第九段一書(二)
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「天津甕星」の記事における「『日本書紀』巻第二 神代下 第九段一書(二)」の解説
【原文】 一書曰、天神、遣經津主神・武甕槌神、使平定葦原中國。時二神曰「天有惡神、名曰天津甕星、亦名天香香背男。請先誅此神、然後下撥葦原中國。」 【書き下し文】 一書あるしょに曰いわく、天神あまつかみ、経津主神ふつぬしのかみ・武甕槌神たけみかづちのかみを遣つかわして葦原中国あしはらのなかつくにを平たいらげ定めせしむ。時に二神ふたはしらのかみ曰く、「天に悪しき神有り。名を天津甕星あまつみかぼし、亦またの名を天香香背男あめのかがせおと曰う。請こう、先ず此この神を誅し、然しかる後に下りて葦原中国を撥はらわん」。 【現代語訳】 ある書によれば、天津神はフツヌシとタケミカヅチを派遣し、葦原中国を平定させようとした。その時、二神は「天に悪い神がいます。名をアマツミカボシ、またの名をアメノカガセオといいます。どうか、まずこの神を誅伐し、その後に降って葦原中国を治めさせていただきたい。」と言った。 第二の一書では天津神となっている。経津主神と武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている。 鹿島神宮や静神社の社伝によれば、武甕槌命は香島(723年に鹿島と改名)の見目浦(みるめのうら)に降り(現在の鹿島神宮の位置)、磐座に坐した(鹿島神郡の要石とも)。天香香背男は常陸の大甕(現在の日立市大甕、鹿島神宮より北方70km)を根拠地にしており、派遣された建葉槌命は静の地(大甕から西方約20km)に陣を構えて対峙した。建葉槌命の陣は、茨城県那珂郡瓜連(うりづら)町の静神社と伝えられる。 「カガ(香々)」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。神威の大きな星を示すという。平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。 星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。 全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。 茨城県日立市の大甕神社は、建葉槌命を主祀神とする(一説には素戔嗚尊とも)。同神社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。 葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方神と同一神とされることもあり、また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。
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