フツヌシとタケミカヅチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 04:12 UTC 版)
『古事記』では国譲りの交渉に成功したのは建御雷神とされる一方、『日本書紀』ではこの場面に主に活躍するのが経津主神で、建御雷神(武甕槌神)が脇役となっている。(『古事記』では経津主神の事にはふれていないが、建御雷神が神武天皇に授けた剣・布都御魂が出てくる。また、建御雷神の異名には「建布都神(たけふつのかみ)」と「豊布都神(とよふつのかみ)」がある。)『出雲国造神賀詞』や『出雲国風土記』にも布都怒志命(経津主神)が登場する一方、建御雷神は見られない。このため、国譲り神話の原形には経津主神が主役として登場していたという説が挙げられている。経津主神は布都御魂の神格化で、それを祀った物部氏とは関係があるという見解もある。 丸山二郎(1947年)は建御雷神と経津主神をヤマト王権の発展と拡大に重要な役割を持った物部氏が奉斎していた神々とし、鹿島神宮と香取神宮は朝廷の祭祀を司る中臣氏と関係する以前に物部氏が東国へ進出した際に成立したものとしていた。いっぽう寺村光晴(1980年)は鹿島神宮がヤマト政権・物部氏との関係の下に成立していた香取神宮とは異なり在地性が強いため、本来は土着豪族の勢力下にあったという説を唱えていた。この説においては、物部氏の没落後に香取神宮とは別に新たな軍事と祭祀の基地が要求された結果、鹿島神宮がヤマト王権の勢力下に入った。この過程によって『古事記』や『日本書紀』には建御雷神と経津主神が混同されたような形になったという。 大和岩雄(1989年)は、『古事記』において大物主神の後裔とされる「建甕槌命」(三輪氏の始祖・意富多々泥古命の父)が建御雷神の原形で、国譲り神話に見られる天津神の「建御雷神」は中臣氏(後の藤原氏)の氏神とされるようになってから成立したものとしている。この説によると鹿島に祀られている神は元々は多氏が奉斎していた大物主系の建甕槌命で、道祖神的な性格を持った甕の神であったが、中臣氏が「雷」の神として剣神・武神という性格を持たせて、国譲り神話に挿入した。 宝賀寿男は、『古事記』の建甕槌命は『古事記』や『旧事本紀』に見られるその系図や他氏族との比較から、三輪氏の祖神で意富多々泥古命の曾祖父に位置づけた。また三輪氏と多氏はそれぞれ海神族と天孫族の出身であるとし、系図、習俗・祭祀体系からもこの二氏は全くの別族であり、建御雷神は最初から中臣氏(山祇族)の氏神であるとする。この説によると山祇族は火神・陸蛇(竜、オカミ)・雷に縁由があり、紀国造の系譜に見るように、迦具土神を始祖としており、また中臣氏上祖に「伊都、市」や「速」とあるように、祖系に複数の雷神が見えることから、建御雷神は天児屋命の父・興台産霊命と同一神であり、物部氏が奉斎した剣神たる経津主神(ここでは天目一箇命と比定)と、中臣氏が奉斎した雷神たる武甕槌神とは別の神とする。なお『神道大辞典』には「武甕槌神と経津主神とは同神とする説があるが、なほ別々の二神の名と見る方が妥当であらう」と記載されている。
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