物部氏との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 03:19 UTC 版)
河内を本拠とした弓削氏は物部氏の本拠と地理的に近く、職掌からも近い関係にあったと考えられるが、学説には物部氏とは別の一族だとする説と、物部氏の傍系とする説がある。 平安時代初めの『先代旧事本紀』では物部尾輿が弓削連の祖である倭古連の女子、阿佐姫と加波流姫を妻としたとある。また尾輿と阿佐姫の子守屋は弓削大連と名乗った。『日本書紀』でも守屋は随所で物部弓削守屋と呼ばれており、その理由として母方の氏の名をとったとするのは自然である。 しかし、孝謙上皇が天平宝字8年(764年)に出した宣命では、道鏡が先祖の大臣の地位を継ごうとしているから退けよと言われたと語る所がある。この大臣は大連であった物部守屋であろう。ここでは河内の弓削氏が物部守屋の子孫だと考えられている。 『日本書紀』によれば、物部守屋が滅亡したとき、守屋の子は逃げ散り、奴婢の半数と宅は四天王寺に与えられた。10世紀頃成立と思われる『四天王寺古縁起』にその内容が記され、領地の中に弓削なる地名があり、守屋の子孫従類が弓削5村に住んだとある。これも守屋の子孫が弓削氏に連なるという説を傍証するものである。
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