『日本書紀』の編纂方針
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「大友皇子即位説」の記事における「『日本書紀』の編纂方針」の解説
壬申の乱について、今に伝わるもっとも詳しく時代も古い史料は『日本書紀』である。この史料では、天智天皇の次の天皇は天武天皇となっており、大友皇子の即位は記されていない。大友皇子即位説とは、『日本書紀』の編者が曲筆して大友即位の事実を抹殺したという説でもある。 『日本書紀』の巻27は天智天皇の時代、巻28と29は天武天皇の時代、最終の巻30は持統天皇の時代を扱う。このうち、巻28は天武天皇元年だけにあてられ、巻29が残りの14年間を扱う。『日本書紀』こと『書紀』がいう天武天皇元年は、壬申の乱が起きた年であり、この年の6月から7月に戦いが起こった。一年に一巻をあてた箇所は他にない。編纂において、壬申の乱が特別に重要な事件とみなされていたことは明らかである。 これには、この内戦が大化改新とともに編纂当時の「現代」を作り出した重要な事件であるという認識が働いていたと思われる。その際には、現天皇の系譜を正統化しようという動機もあったであろう。 『書紀』の編者を率いたのは舎人親王で天武の子、完成時の元正天皇は天武の孫で、編纂期間中を通じて皇位は天武系が占めていた。そのため、天武天皇を咎めるような事実を記さなかった可能性が高い。政権が望まない事実を削除したことは後続の『続日本紀』に例があり、まったくの嘘を創作することと比べれば抵抗が少なかったと思われる。 壬申の乱で死んだ皇族は大友皇子と山部王の二人だけであり、他の天智系皇族は大友の子葛野王をも含めて全員が生き残って朝廷を構成した。その他中・下級の官人まで含め、存命のものは多かった。彼ら皇族・臣下は『日本書紀』の想定読者でもあるので、よく知られた事実を否定するような操作は難しかったのではないかという指摘もある。 『書紀』の内容が信頼できないことからは、真偽不明という結論は導けても、そこから直ちに『書紀』の記述の反対が真実だとか、論者の想像が真実だとかいう結論は導けない。書紀の記述に信をおかず、同時に大友皇子の即位を認めない説も可能である。即位説を積極的に主張するためには、別の判断材料が必要となる。
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