『日本書紀』の編纂方針とは? わかりやすく解説

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『日本書紀』の編纂方針

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/22 02:23 UTC 版)

大友皇子即位説」の記事における「『日本書紀』の編纂方針」の解説

壬申の乱について、今に伝わるもっとも詳しく時代も古い史料『日本書紀』である。この史料では、天智天皇次の天皇天武天皇となっており、大友皇子即位記されていない大友皇子即位説とは、『日本書紀』編者曲筆して大友即位事実抹殺したという説でもある。 『日本書紀』の巻27天智天皇時代、巻2829天武天皇時代最終の巻30持統天皇時代を扱う。このうち、巻28天武天皇元年だけにあてられ、巻29残り14年間を扱う。『日本書紀』こと『書紀』がいう天武天皇元年は、壬申の乱起きた年であり、この年6月から7月戦い起こった一年一巻をあてた箇所は他にない。編纂において、壬申の乱特別に重要な事件みなされていたことは明らかである。 これには、この内戦が大化改新とともに編纂当時「現代」作り出した重要な事件であるという認識働いていたと思われるその際には、現天皇系譜正統化しようという動機もあったであろう。 『書紀』の編者率いたのは舎人親王天武の子完成時元正天皇天武の孫で、編纂間中通じて皇位天武系が占めていた。そのため、天武天皇咎めるような事実を記さなかった可能性が高い。政権望まない事実削除したことは後続『続日本紀』に例があり、まったくの嘘を創作することと比べれば抵抗少なかった思われる壬申の乱死んだ皇族大友皇子山部王二人だけであり、他の天智皇族大友の子葛野王をも含めて全員生き残って朝廷構成した。その他中・下級の官人まで含め存命のものは多かった。彼ら皇族臣下『日本書紀』想定読者でもあるので、よく知られ事実否定するような操作難しかったではないかという指摘もある。 『書紀』の内容信頼できないことからは、真偽不明という結論導けても、そこから直ちに『書紀』の記述反対真実だとか、論者想像真実だとかいう結論導けない。書紀記述に信をおかず、同時に大友皇子即位認めない説も可能である。即位説積極的に主張するためには、別の判断材料が必要となる。

※この「『日本書紀』の編纂方針」の解説は、「大友皇子即位説」の解説の一部です。
「『日本書紀』の編纂方針」を含む「大友皇子即位説」の記事については、「大友皇子即位説」の概要を参照ください。

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