『日本書紀』『続日本紀』『魏志倭人伝』『万葉集』等の記録とは? わかりやすく解説

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『日本書紀』『続日本紀』『魏志倭人伝』『万葉集』等の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:52 UTC 版)

九州王朝説」の記事における「『日本書紀』『続日本紀』『魏志倭人伝』『万葉集』等の記録」の解説

和銅4年711年) - 延暦19年800年)の蓄銭叙位令などが示すように畿内地方8世紀まで通貨経済皆無であったが、『続日本紀』769年神護景雲3年10月記事太宰府役人都に「此府人物殷繁。天下之一都會也。 この府は人の行き来交易が盛んで、日本で一番の都会である。」と報告しているように太宰府国際交易都市であり、役人程度しか住まなかったという藤原京平城京などのヤマト王権首都凌ぎ古代日本で最も繁栄していた都市であった。 『魏志倭人伝』によると3世紀奴国博多)でさえ2万戸(10万人以上)の人口があり藤原京平城京より遥かに人口多かった。また畿内地方8世紀まで通貨経済皆無であったが「國國有市交易有無、使大倭監之。 国々には市場があり、交易有無大倭倭人で位の高い者)に監視させている。」とあり倭では交易が盛んであったことが窺える。 「新唐書日本伝」に、「其の王の姓は阿毎氏。自ら言う、初めの主は天御中主と号し、・・・筑紫城に居す。」とあり、 筑紫城 = 大宰府都府楼)である。 『日本書紀』壬申の乱672年)の記事に「倭京」の名がみえるが、この時期畿内地方には未だ京と呼べるような都市無く飛鳥宮等は宮殿のみで市街地持たない)。これは当時日本存在していた唯一の都市である太宰府のことと考えられる『万葉集』大宰小弐小野老朝臣天平元年729年大宰府着任した時、饗宴で「奈良の都」を偲んで詠ったとされる次の歌があるが、この歌は大宰府繁栄を詠ったものであり、大宰府繁栄を示すものである青丹寧樂京師咲花乃 薫如 今盛有 あをによし ねいらのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり 3-238」 → あをによし

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