『日本書紀』『続日本紀』『魏志倭人伝』『万葉集』等の記録
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「九州王朝説」の記事における「『日本書紀』『続日本紀』『魏志倭人伝』『万葉集』等の記録」の解説
和銅4年(711年) - 延暦19年(800年)の蓄銭叙位令などが示すように畿内地方は8世紀まで通貨経済は皆無であったが、『続日本紀』769年(神護景雲3年)10月の記事で太宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也。 この府は人の行き来や交易が盛んで、日本で一番の都会である。」と報告しているように太宰府は国際交易都市であり、役人程度しか住まなかったという藤原京や平城京などのヤマト王権の首都を凌ぎ、古代日本で最も繁栄していた都市であった。 『魏志倭人伝』によると3世紀の奴国(博多)でさえ2万戸(10万人以上)の人口があり藤原京や平城京より遥かに人口が多かった。また畿内地方は8世紀まで通貨経済は皆無であったが「國國有市、交易有無、使大倭監之。 国々には市場があり、交易の有無を大倭(倭人で位の高い者)に監視させている。」とあり倭では交易が盛んであったことが窺える。 「新唐書・日本伝」に、「其の王の姓は阿毎氏。自ら言う、初めの主は天御中主と号し、・・・筑紫城に居す。」とあり、 筑紫城 = 大宰府(都府楼)である。 『日本書紀』壬申の乱(672年)の記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内地方には未だ京と呼べるような都市は無く(飛鳥宮等は宮殿のみで市街地は持たない)。これは当時日本に存在していた唯一の都市である太宰府のことと考えられる。 『万葉集』に大宰小弐小野老朝臣が天平元年(729年)大宰府に着任した時、饗宴で「奈良の都」を偲んで詠ったとされる次の歌があるが、この歌は大宰府の繁栄を詠ったものであり、大宰府の繁栄を示すものである「青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有 あをによし ねいらのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり 万3-238」 → あをによし
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