近代の発見とは? わかりやすく解説

近代の発見

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 09:38 UTC 版)

エジプト先王朝時代」の記事における「近代の発見」の解説

ローマ時代後半以降古代エジプト文献記録継承途絶えてしまった。そのため、王朝以前のエジプトについての研究何ら進展見られない1822年フランス人研究者J.F.シャンポリオンヒエログリフ解読成功した事によって近代エジプト学確立されると、エジプト王朝時代王達歴史が再び明らかにされるようになった。そして19世紀終わりまで、エジプトの歴史の曙は、王朝時代記録や、ギリシア語文献記録に基づき初代王メニをはじめとする初期王朝時代王達業績求められることになった相次ぐ考古学的発見に伴い19世紀終わり頃になると文献記録のみに頼ることのない文明誕生本格的な研究始まったフリンダーズ・ピートリーによるナカダ遺跡周辺発掘調査1894年-1895年)と、J.ド・モルガンによるエジプト南部およびナカダ遺跡調査1896年-1897年)が王朝時代以前から初期王朝時代にかけての遺跡における最初本格的な調査であった。これらの調査発見され文化は、最初に発見され遺跡の名前からナカダ文化呼ばれるようになったその後20世紀前半まで調査によって数多く王朝時代以前遺跡調査され文明誕生期歴史と文化についての知見蓄積され結果エジプト第1王朝開闢先立つ時代は「先王朝時代(英:Predynastic Period)」の呼称与えられエジプト学中でも独立した研究分野としての地位確立していった。 初期の研究リードしたピートリーは、ナカダ文化期から初期王朝時代にかけての文化変化を「アムラー」「ゲルゼー」「セマイネー」の3つの文明交代として捕らえその背景には東方西アジア)からの異民族侵入があったとした。この考え方王朝民族侵入説と呼ばれハヤブサトーテムとする王朝民族ホルス族)が東方からエジプトにやってきてエジプト王朝打ち立てたとするもので、W.B.エメリーなど当時エジプト学権威などからも支持されたため広く学会受け入れられた。大城道則はこの説について、日本史における騎馬民族征服王朝説思い起こさせるという所感述べている。 その後の調査で、エジプト北部ではナカダ文化様相異にする複数文化発見された。これらの文化発見され遺跡地方の名前からマーディ文化メリムデ文化ファイユーム文化オマリ文化等と命名された。更にアビュドス遺跡初期王朝時代王達の墓が発見され、メニ王を同時代の王と同定しようとする試み盛んになった。

※この「近代の発見」の解説は、「エジプト先王朝時代」の解説の一部です。
「近代の発見」を含む「エジプト先王朝時代」の記事については、「エジプト先王朝時代」の概要を参照ください。

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