近代の稲作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:35 UTC 版)
明治時代に入ると、柔らかい湿地を人間が耕す方法から硬い土壌の水田を牛や馬を使って耕す方法が行わるようになった。肥料も排泄物ではなく魚肥や油粕など金肥と呼ばれる栄養価の高いものが使われるようになっていった。交通手段の発達を背景に、各地の篤農家(老農)の交流も盛んになり、江戸時代以来の在来農業技術の集大成がなされた(明治農法)。ドイツから派遣されたオスカル・ケルネルらによって西洋の科学技術も導入され農業試験場などの研究施設も創設された。稲の品種改良も進み亀の尾などの品種が作られた。 江戸時代から北海道道南の渡島半島南部では稲作が行われていたが、明治に入ると道央の石狩平野でも栽培されるようになった。中山久蔵などの農業指導者が寒冷地で稲作を可能とするために多くの技術開発を行い、かつて不毛の泥炭地が広がっていた石狩平野や上川盆地は広大な水田地帯に変じ(道央水田地帯)、新潟県と一二を争う米どころへ変化していく。 こうして昭和初年には、米の生産高は明治11〜15年比で2倍以上に増加したが、それにもかかわらず昭和初期には幕末の3倍近くにまで人口が膨れ上がったことにより、日本内地の米不足は深刻であり、朝鮮や台湾からの米の移入で不足分を賄う有様となった。 戦後、国内生産が軌道に乗ってからは、政府が米を主食として保護政策を行ってきた。不作を除いて輸入を禁止し、流通販売を規制した。自主流通米は量を制限し、政府買い上げについては、買い上げ価格より安く赤字で売り渡す逆ザヤにより農家の収入を維持しつつ、価格上昇を抑制する施策をとってきた。農閑期に行われていた出稼ぎは、稲作に機械化が進み人手が余り要らなくなったため、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「三ちゃん農業」が多くなり、通年出稼ぎに行く一家の主が増え、専業農家より兼業農家の方が多くなった。1960年代以降、食生活の多様化により一人当たりの米の消費量の減少が進み、1970年を境に米の生産量が消費量を大きく越え、米余りの時代に突入。政府によって減反政策などの生産調整が行われるようになった。
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