古代とブルガリア人の征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 20:40 UTC 版)
「ヴァルナ (ブルガリア)」の記事における「古代とブルガリア人の征服」の解説
古代のトラキアには紀元前1,000年にはトラキア人が居住していた。ミレトスの人々によりオデソスに交易地点であるアポイキアapoikiaが紀元前7世紀の終わり頃に設立されたか、古代ギリシャの地理書Pseudo-Scymnus (en) によれば当時アステュアゲス(紀元前572-570年頃と言われている。)で初期のトラキア人の居住地であった。オデソスの名称はおそらくギリシャ以前のアナトリア語派のカリア語がもとであるとされる。ポントスのペンタポリス(英語版)のメンバーであったオデソスには様々なコミュニティがありイオニア人と後背地のトラキア人(ゲタイ、クロビゾイ(英語版)、テリジ(英語版))との接触の場であった。 トラキア人の土地の近くの発掘では紀元前7世紀から4世紀にかけて絶え間なく居住しており、植民と商業が密接していた。ギリシャ文字がトラキア語に少なくとも紀元前5世紀から使われている。 紀元前425年、オデソスはデロス同盟の評価に含まれていた。紀元前339年のピリッポス2世の包囲は成功しなかったが、紀元前335年アレクサンドロス3世に降伏しその後、ディアドコイであるリュシマコスにより支配された。紀元前313年には他のポントスやゲタイの都市の一部が連合し反乱を起こしている。ローマ都市としてのオデソスは最初、海岸県Praefectura orae maritimaeに含まれていたが15年にモエシア(後のモエシア・インフェリオル)に併合され、今日のヴァルナ中心部には47ヘクタールを占めた公共浴場のテルマエがあり2世紀後半に建築され、今日ではブルガリアに残る最大のローマのもので建物は幅 100 m (328.08 ft) 、長さ 70 m (229.66 ft) 、高さ25 m (82.02 ft)でヨーロッパでも4番目に大きなローマ風呂として知られている。3世紀頃には大きな陸上競技会が5年ごとに開かれていた。 オデソスは初期の初代教会の中心で、10カ所の初期のバシリカの跡がそれを物語っており、単性説修道院や七十門徒、アンプリアト(英語版)、アンデレの門弟が表れて主教が務めていた。6世紀、帝国の文書では「聖なる都市」sacratissima civitasと呼ばれていた。442年、テオドシウス2世とアッティラとの間で和平協定がオデソスで結ばれた。513年ウィタリアヌス (Vitalian (general)) の反乱の中心となった。536年ユスティニアヌス1世は独特の行政区画で quaestor Justinianus などが治めるQuaestura exercitus (en) の中心を設け下モエシアやスキュティア、カリア、エーゲ海諸島、キプロスが含まれていた。後にオデソスの外に軍の野営地に他のローマ人上級司令官の中心が置かれた。イレチャク・ライン(英語版)またはラテンとギリシャを分けるおおよその言語的な境界線がオデソスからアドリア海にかけて当時走っていた。 テオファネス (証聖者)に最初のヴァルナの言及があり6-7世紀にかけスラヴ人によるバルカン半島の征服により知られるようになった。この名称はおそらくもっと古く、インド・ヨーロッパ祖語語根(英語版)の水を意味するwe-r- やスラヴ祖語がルーツである黒を意味する varn 、イラン語群で野営地や要塞を意味する bar やvarからもたらされている可能性もある。 テオフォーヌによれば680年に第一次ブルガリア帝国の建国者であるアスパルフはドナウデルタ近くでコンスタンティノス4世の一軍団を敗北させた後、追跡し続けヴァルナと称するオデソス近くに達しった。おそらく、最初にヴァルナの新しい名称が使われたのは近隣の川や湖、ローマ人の野営地や島などで街の名称として使われたのは後のことである。10世紀後半、ヴァルナの名称はしっかりと確立したがブルガリア人から970年代にビザンティンに支配が戻った時も古代のオデソスを使うよりもヴァルナの名称が使われた。681年のビザンティン帝国との和平条約により新しいブルガリアの国が建国され一時的にドナウ以南のブルガリアの最初の首都とされた。ことによると、古代の都市はヴァルナ湖の北岸近くユスティニアヌス1世によりテオドリアス(Θεοδωριάς/Theodorias)と名付けられた場所で、70km西のプリスカへ移動する以前に置かれた。 要塞化されたアスパルクはヴァルナ川低地のおそらくビザンティンの上陸を阻止する為のもので、アスパルホヴォの壁(Asparuhov val)は今でも残されている。多くの7世紀のブルガール人の集落が市内やさらに西側で発見されており、ヴァルナ湖の北岸にはすべての地域でもっとも多くのブルガール人が密集して住んでいた。アスパルクは重要なローマの軍の野営地(campus tribunalis)でユスティニアヌス1世によりオデソスの外に設けられ下モエシアやスキュティアを治める中心であったと考えられる。
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