古代と中世
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戯画的漫画・落書きは、その大衆的性格から(また時に体制批判的な内容から)、美術が権力者や宗教に従事していた古代や中世には、積極的に残される努力はされなかった。それ故に、作例がかなり限られてくる。日本の現存する最古の漫画の作例では、法隆寺に残された漫画が挙げられる。古代エジプトの漫画としては、権力者を動物化して表現した漫画が存在している。これは壁画や壷絵等、複数残されている。古代ギリシアでも、壷絵には、割と多くの戯画的表現を見出すことが出来るが、古代世界で多くの漫画が残されているのはポンペイである。この古代ローマ時代の地方都市は、ある日突然に火山の噴火によって町が灰に埋もれたことから、普通では残ることのないようなごくごく日常的な絵画や漫画の類まで残されている。これらは偶然に残されたこと、庶民的性格、おおらかな性の表現といった点で似ている。 また、宗教において写本画のごくごく目立たない部分に落書きがあったり、後期中世を通じて大量に流布していた木版画には、民衆的ユーモアを確認することができる。日本の仏典の端には、写学生の気晴らしと思われる漫画などが見られる。ゴシック末期の、例えばショーンガウアーやボッスの作品には、様々な戯画的世界が見られる。宗教関連では、仏教では釈迦一代記曼荼羅が描かれた。これは、釈迦の両親から、象の夢による妊娠に始まって、出家、涅槃までを、中央の釈迦を中心に、左下から反時計回りに展開したものである。一方、キリスト教では、イエスの物語を語り継ぐことが信仰の中心となったこともあり、十字架の道(Via Crucis)が多くの教会の内部(巡礼に倣うために、各柱の下)に描かれた。これは、イエスの死刑宣告から復活まで、14コマ+1コマで描くものであり、イエスやピラト、マリア、シモン、ベロニカなどのキャラクターが定型的に描かれる。これらを原点として、仏教でも、キリスト教でも、さまざまな時間的な物語が、絵や彫刻、ステンドグラスのコマ、ないし連続的展開によって説明される形式が確立されていた。ただし、当時の民衆は文字が読めない場合が多かったために、説明は、宗教家の活弁によって補われる必要があった。
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古代と中世
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生物戦の初歩的な戦術は古代から行われていた。生物兵器の最古の使用例とされているのが、紀元前1500年から紀元前1200年のヒッタイト人が行った野兎病の感染者を敵地に送り込んで病気を蔓延させるという戦法である。他にもアッシリア人が敵地の井戸を麦角菌で汚染するという戦法を取ったが、戦果については記録されていない。スキタイ人や古代ローマ軍は剣や弓矢に排泄物や死体の血を塗り付けて、傷つけた相手に破傷風を負わせる戦法が流行っていた。1346年、クリミア半島の町カッファを包囲したジョチ・ウルス軍がペストに感染した死体を投石器で街に投げ込み、町中にペストを蔓延させるという戦法を取った。歴史家の間では、この戦術の結果が14世紀のペスト大流行に繋がったのではないかという議論がある。 16世紀以降のアフリカ各地では、生物兵器が広く使用されたとされており、その多くは毒矢や粉末を戦場に撒いたり、敵軍の馬や水源に毒を盛ったりする形で使用された。ボルグでは、殺傷、催眠術、興奮、解毒剤として機能する特殊な調合薬が使われていた。この薬剤は特定の専門技術を持つ医学者のみに許されていたという。
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古代と中世
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ウスラー地域の最初の定住は新石器時代の農耕文化によるものであった。 ウスラーは9世紀にはすでに"Husleri"という名で呼ばれていた。この名称は"Yssellär"に由来するもので、「冷たい水辺の土地」を意味した。集落を拓いたのはおそらくカッティ族出身者であると考えられている。文献上は、1006年から1007年頃の"Traditiones Corbeiens"(コルヴァイ修道院の土地台帳の一種)Nr. 499に、Luthardus(おそらくは土地を所有した貴族の名前と思われる)の土地30モルゲンの寄贈に関連して "Huslere" という名称で記録されている。 13世紀にはウスラーはすでにザクセン公国領に属しており、エンゲルンとオストファーレンの境界地域となっていた。ウスラーを統治するレーエン領主は、たとえばノルトハイム伯やダッセル伯など、様々に入れ替わった。その後、城の記載があり、これにちなんだ「フォン・ウスラー」男爵の記録がある。この貴族は領主ではあるが、おそらく自由貴族の家系であったと思われる。「(フォン・)ウスラー」の姓はゲッティンゲン周辺地区、ドイツ全土、あるいは南アメリカのスペイン語圏で現在まで存続している。 ザクセン公勢力の瓦解後、ウスラーはブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領、ゲッティンゲン侯領、カレンベルク侯領に属した。 ウスラーは1263年にブラウンシュヴァイク公アルブレヒト1世から都市権を授けられた。ウスラーの領主は1269年に市議会の導入によって排除され、ウスラーの所領と交換に現在のグライヒェンの土地とノイエングライヒェンとアルテングライヒェンの山城を手に入れた。この家系から19世紀初めにウスラー=グライヒェン家が創設された。ヴェーザー河畔にまで版図を拡げたヴェルフ家にとって、14世紀初めにここに築いた城は大変に重要であった。この城は居住用や狩猟用にも用いられた。ブラウンシュヴァイク=ゲッティンゲン公オットー2世は1428年に、この城に防衛塔とともに礼拝堂を築いた。この礼拝堂は、現在の聖ヨハニス教会の前身となった(ウスラーの最初の司祭に関する記録は1277年になされている)。教会塔は城の防衛塔の一部をなしていた。公は豪華な居館を設け、後にウスラーはゲッティンゲン侯の隠居地に選ばれた(1476年)。 1485年から1490年まで、そして1585年にもウスラーはペスト禍に襲われた。さらに1624年から1642年まで赤痢、チフス、天然痘が蔓延した。
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