大ドイツ帝国
大ドイツ帝国(ナチス・ドイツ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 04:49 UTC 版)
「東プロイセン」の記事における「大ドイツ帝国(ナチス・ドイツ)」の解説
詳細は「ナチス・ドイツ」を参照 ナチス政権以前から、東プロイセン南部のマズーリアではプロシア語由来の地名のドイツ語化が進められていたが、ナチ党の権力掌握により国家社会主義の時代になると、シュレジエンやラウジッツ同様、先住民の言葉の響きの残る非ゲルマン的な地名の純ゲルマン語化が組織的に進められた。1938年7月16日には、東プロイセン州総督・大管区指導者エーリヒ・コッホにより、東プロイセンのプロシア語やリトアニア語に由来する地名の改名が指示された。ピルカーレン(現ドブロヴォルスク)は「城の丘」という意味であったことから、ドイツ語に直訳されシュロスベルクに変えられ、ラズデーネン(現クラスノズナメンスク)は「ヘーゼルナッツ」を意味する原名からハーゼルベルクと改名された。シュタルペーネン(現ネステロフ)は原名と無関係なエーベンローデに改められた。 ナチス・ドイツは旧東部領土の回復をポーランド侵略の口実とした。ナチスは東プロイセンへの陸上路であるポーランド回廊の割譲 (及び両国間で長年続く領土問題の解決、ソ連侵略後の獲得ソ連領土分配率、両国の少数民族、ソ連影響下国家とならない) に関しポーランド側は拒否、交渉は決裂する。ソ連もヒトラーの要求を拒否した。1939年、ナチス・ドイツは旧ドイツ帝国領の北辺の地、いったん国際管理となり隣国リトアニア領になっていたメーメル地域(英語版)を東プロイセンに併合。同年、ポーランドがポーランド回廊の割譲要求に応じないことを名目に宣戦布告のないままポーランドに侵攻した。この際に東プロイセンはドイツ軍の出撃基地となった。ポーランド侵攻の結果、ドイツは西プロイセンを実効支配し、東プロイセンは再びドイツ本土と地続きになった。東プロイセンを含むすべてのナチス・ドイツ占領地域に住んでいたナチス・ドイツの法令でポーランド人と認定された者はポーランド総督府に移住した。独ソ戦開始とともに東プロイセンのラステンブルク郊外に「総統大本営」が置かれ、ヒトラーは東部戦線に近いここから軍隊を指揮した。ベルリンへ向かうソ連赤軍が東プロイセン攻勢を行った1945年1月から4月の間に、東プロイセンの住民260万人(1939年時点)のうち200万人以上がドイツ西部に逃れ(en:Evacuation of East Prussia)、残った人々も戦後シベリアに送られ、ドイツ人追放が行なわれた。
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