大ドイツ主義と小ドイツ主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 16:08 UTC 版)
「アンシュルス」の記事における「大ドイツ主義と小ドイツ主義」の解説
神聖ローマ帝国が統一国家としての実権を失った三十年戦争以後、ドイツ語圏は主権国家化した領邦と帝国自由都市によって分裂し、ドイツ民族の統一した「ドイツ国家」の復活は多くのドイツ人の悲願であった。しかし、大きな内部的な課題が存在していた。三十年戦争後、神聖ローマ帝国には皇室であるハプスブルク家が治めるオーストリアと、新興勢力のホーエンツォレルン家が治めるプロイセンという2つの大国が並立し、いずれも自国によるドイツ統一を望んでいた。帝国は第三次対仏大同盟中のライン同盟離脱によって解体されたが、ウィーン議定書に基づいてオーストリア帝国が主導するドイツ連邦が新たに結成された。ただし、ドイツ連邦はあくまでも複数の主権国家の連合体であった上、オーストリアの領土にはハンガリー人やスラブ民族などが多く居住しており、異民族が存在したのでは本当の意味での国民国家が成り立たないとの意見もあった。 国民国家としてのドイツ統一は、1848年革命によってドイツ民族のナショナリズムが高揚する中、憲法制定を通じた自由主義的なドイツ統一を図るフランクフルト国民議会において、初めて具体的な実現方法を討議された。だが議会では、多民族国家であるオーストリアを排除した統一国家をとりあえずつくるべきだという「小ドイツ主義」と、オーストリアを含めた全ドイツ語圏の国家統一を目指す「大ドイツ主義」が対立し、自由主義への反動や各領邦の利害対立も相まって、統一に関する実行可能な合意を得ることができなかった。その後、ドイツ連邦内でいち早く強国となったプロイセンは、自らが完全に主導権を掌握できる「小ドイツ主義」での統一策を推進し、1866年の普墺戦争でオーストリアに勝利するとドイツ連邦を解体して新たに自らを盟主とする北ドイツ連邦を新設した他、バイエルン王国等のドイツ南部諸国と同盟関係を結んだ。そして1871年の普仏戦争でプロイセンがフランスに勝利すると、ヨーロッパ大陸で軍事的にプロイセンに対抗できる国が存在しなくなった。この結果、同年中にプロイセン国王はドイツ皇帝となり、オーストリアを除く統一国家ドイツ帝国(ドイツ国)が誕生した。
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