大ドルススの遠征
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「ローマ帝国初期のゲルマニア戦役」の記事における「大ドルススの遠征」の解説
紀元前13年、アウグストゥスの継子で軍事経験に富んだネロ・クラウディウス・ドルスス (大ドルスス)がガリア総督として赴任した。翌年、ガリアで人口調査と税収制度改革に抵抗する反乱が起きた。この紀元前12年のほとんどを、大ドルススは敵情偵察、補給の整備、軍や基地の連携の確認、ライン川沿いでの要塞建設などに費やした。この時に成立した要塞都市は、以下のとおりである。 まず大ドルススは、侵攻してきたスガンブリ族とウシペテス族を撃退し、逆にライン川を越えて報復攻撃をかけた。これが、ローマ帝国による28年間にわたるライン川越境遠征の始まりとなった。 大ドルススは最初にウシペテス族の地に侵攻し、そこから北上してシカンブリ族の土地を蹂躙した。またライン川を下って現在のネーデルラントに再上陸し、フリーシー族を征服して自らの同盟者とした。次には現在のニーダーザクセン州にあたる地域に住んでいたカウキー族を攻撃した。最終的に、大ドルススの軍勢は冬にライン川を渡ってローマへ帰還した。 紀元前11年春、大ドルススは第2次遠征に出てライン川を渡った。まずウシペテス族を服属させ、さらに東進してウィスルギス(ヴェーザー川)まで至った。そこから、エムス川とエルベ川の間にまたがっていたケルスキ族の土地に入り、ヴェーザー川まで押し込んだ。ローマ帝国史上、ライン川方面からゲルマニアに侵入した例としてはこれがもっとも東方へ到達した遠征となった。しかし補給の懸念や冬の到来を前にして、大ドルススは一旦友好的な部族の土地へ後退した。その間に、彼の軍団はゲルマン人の地形を生かした襲撃に晒され、壊滅寸前まで追い込まれた。 紀元前10年、大ドルススは執政官に就任した。またこの年、ローマのヤヌス神殿の扉が閉じられた。これは戦争が終結し、ローマに平和が訪れたことを示すものだが、実際にはゲルマニアでの戦争は終わらなかった。大ドルススは春にライン川を渡り、その年の大部分をカッティ族との戦争に費やした。この第3次遠征で、大ドルススはカッティ族やその他のゲルマン部族を征服し、前年と同様にローマへ戻った。 紀元前9年、執政官大ドルススは、凶兆が報告されていたにもかかわらず第4次遠征を決行した。再びカッティ族を攻撃した後、スエビ族の領域まで侵攻した。しかしこの遠征は困難に満ちたもので、ゲルマン人の襲撃を撃退するたび、ローマ軍も大きな損害を出した。その後、ケルスキ族を攻撃し、これが逃げるのを追ってヴェーザー川を渡り、エルベ川まで至った。カッシウス・ディオによれば、大ドルススらは「行く先にあるあらゆる物を略奪した」。オウィディウスは、大ドルススが帝国の版図を最近発見されたばかりの土地にまで広げた、と述べた。しかしライン川へ向けて帰還する途中、大ドルススは落馬して重傷を負い、その傷が壊疽を起こして30日後に死去した。 大ドルススが病と聞いたアウグストゥスは、直ちにその兄ティベリウスを派遣した。その時パヴィーアにいたティベリウスは急いで大ドルススのもとに向かい、辛うじて弟が息を引き取る前に間に合った。
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