大ドルススの遠征とは? わかりやすく解説

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大ドルススの遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 18:38 UTC 版)

ローマ帝国初期のゲルマニア戦役」の記事における「大ドルススの遠征」の解説

紀元前13年アウグストゥス継子軍事経験富んだネロ・クラウディウス・ドルスス (大ドルスス)がガリア総督として赴任した翌年ガリア人口調査税収制度改革抵抗する反乱起きた。この紀元前12年のほとんどを、大ドルスス敵情偵察補給整備、軍や基地連携確認ライン川沿いでの要塞建設などに費やした。この時に成立した要塞都市は、以下のとおりである。 まず大ドルススは、侵攻してきたスガンブリ族とウシペテス族を撃退し逆にライン川越えて報復攻撃をかけた。これが、ローマ帝国による28年間にわたるライン川越境遠征始まりとなった大ドルスス最初にウシペテス族の地に侵攻し、そこから北上してシカンブリ族の土地蹂躙した。またライン川下って現在のネーデルラント再上陸し、フリーシー族を征服して自らの同盟者とした。次に現在のニーダーザクセン州にあたる地域住んでいたカウキー族を攻撃した最終的に大ドルスス軍勢は冬にライン川渡ってローマへ帰還した紀元前11年春、大ドルスス第2次遠征出てライン川渡った。まずウシペテス族を服属させ、さらに東進してウィスルギス(ヴェーザー川)まで至った。そこから、エムス川エルベ川の間にまたがっていたケルスキ族の土地入りヴェーザー川まで押し込んだローマ帝国史上ライン川方面からゲルマニア侵入した例としてはこれがもっと東方到達した遠征となった。しかし補給懸念や冬の到来前にして、大ドルススは一旦友好的な部族土地後退したその間に、彼の軍団ゲルマン人地形生かした襲撃晒され壊滅寸前まで追い込まれた。 紀元前10年大ドルスス執政官就任した。またこの年ローマヤヌス神殿の扉が閉じられた。これは戦争終結しローマに平和が訪れたことを示すものだが、実際にゲルマニアでの戦争は終わらなかった。大ドルスス春にライン川渡り、その年の大部分カッティ族との戦争費やした。この第3次遠征で、大ドルススカッティ族やその他のゲルマン部族征服し前年同様にローマへ戻った紀元前9年執政官大ドルススは、凶兆報告されていたにもかかわらず第4次遠征決行した。再びカッティ族を攻撃した後、スエビ族領域まで侵攻した。しかしこの遠征困難に満ちたもので、ゲルマン人襲撃撃退するたび、ローマ軍大きな損害出したその後、ケルスキ族を攻撃し、これが逃げるのを追ってヴェーザー川渡りエルベ川まで至ったカッシウス・ディオによれば大ドルススらは「行く先にあるあらゆる物を略奪した」。オウィディウスは、大ドルスス帝国版図最近発見されたばかり土地にまで広げた、と述べた。しかしライン川向けて帰還する途中大ドルスス落馬して重傷負い、その傷が壊疽起こして30日後に死去した大ドルススが病と聞いたアウグストゥスは、直ちにその兄ティベリウス派遣したその時パヴィーアにいたティベリウス急いで大ドルススのもとに向かい辛うじて弟が息を引き取る前に間に合った

※この「大ドルススの遠征」の解説は、「ローマ帝国初期のゲルマニア戦役」の解説の一部です。
「大ドルススの遠征」を含む「ローマ帝国初期のゲルマニア戦役」の記事については、「ローマ帝国初期のゲルマニア戦役」の概要を参照ください。

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