映画産業の拡大
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帝国の拡大に伴い、帝国映画産業は新しい市場を獲得した。占領された国の制作設備は、価値があると見れば、所かまわず強奪され、ドイツ本国の企業に吸収された。当地のアーティストは、様々な義務を強制的に課され、大ドイツのプロパガンダのために従事させられた。 1938年の独墺合邦前に、ドイツオーストリアは、ヨーロッパ初の国家として、映画産業がヒトラーの政策の直接的影響を受ける状態へと陥っていた。すでに1936年4月20日、映画とその出演者に関する規定が、ほぼ1対1でオーストリア製のドイツ映画に割り当てられた。帝国映画文化院(Reichsfilmkulturkammer)は、ベルリンでオーストリア映画制作者団体との契約に調印した。当初から、ナチ政権はオーストリア・ファシスト政権に圧力をかけ、ドイツで不興を買った人物が映画で協力するのを妨げた。最も強力な圧力は輸入全面禁止という強迫であり、すでに1934年にはドイツにとって好ましくない人物による映画の輸入が拒否されていた。 オーストリア最大の映画制作会社、ウィーンのトービス=ザシャ・フィルム株式会社(ドイツ語版)は、すでに1938年の前から、ドイツへの輸出禁止という強迫に対応して、ヒトラーの反ユダヤ政策の実施をやむを得ないとし、もはや一人のユダヤ人アーティストも雇用していなかったが、ウィーン=フィルム株式会社(ドイツ語版)として改めて設立された。カウツィオ信託(ドイツ語版)は、クレディットアンシュタルト(ドイツ語版)と共同して、数ヶ月前にトービス=ザシャの株式の大半を取得していたため、この買収は事実上合法であった。その後ウィーンは、ベルリンとミュンヘンと並んで、監督のヴィリ・フォルスト、グスタフ・ウチツキー(ドイツ語版)、ハンス・ティミヒ(ドイツ語版)、レオポルト・ハイニッシュ(ドイツ語版)、ゲーザ・フォン・ツィフラ(ドイツ語版) らとともにナチ映画映画制作の中心地の一つとなった。特に起用された俳優にはパウラ・ヴェセリー(ドイツ語版)、マルテ・ハレル(ドイツ語版)、ハンス・モーザー、アッティラ・ヘルビガー(ドイツ語版)とパウル・ヘルビガーがいた。およそ50本の劇映画と60本の文化映画が制作された。 「オーストリアの初期映画の歴史(ドイツ語版)」も参照 ヒトラーの故郷、オーストリアの後を辿ったのは、チェコスロヴァキアであった。まず1938年9月30日にドイツ人が住む国境地帯が全て大ドイツ帝国に国際法に則り割譲され、1939年3月15日、独裁者は残る国土もドイツ国防軍に占領を命じ、チェコ地域はベーメン・メーレン保護領となった旨、宣言された(→ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体参照)。チェコのAB映画制作株式会社はバランドフとホスティヴァジ(チェコ語版)に有名なスタジオ施設を持っていたが、「アーリア化」された上で1942年11月21日にプラハ=フィルム株式会社(ドイツ語版)に改組され、1942年からはUFIコンツェルンの終焉までドイツ語、チェコ語による映画が制作された。チェコでは2社、National FilmとLucerna Filmが業務継続を許可された。空襲のため、ドイツ本国での映画撮影が困難を増す中、プラハはドイツ映画の制作に不可欠な代替地となった。 ポーランドでは、1939年9月1日のポーランド侵攻により総督府が設置されると、ポーランドの映画産業は消滅した。アーティストは地下に潜伏し、映画制作は完全に停止した。 「ポーランド映画(ドイツ語版)」も参照 1940年4月9日、ヒトラーは国防軍に命じ、デンマークを占領したが(→ヴェーザー演習作戦参照)、同地の映画産業はほとんどドイツの映画政策の影響を受けなかった。ドイツ映画は、デンマーク国民によって暗黙のうちにボイコットされた。隣国ノルウェーの映画経済は、ドイツが占領した時点ではあまり発展していなかったため、特にナチの関心を集めることもなかった。ノルウェーで活動していた映画監督も少なく、ほとんど妨害を受けることなく仕事を続けることができた。 1940年5月10日、次いでベネルクス諸国が占領された(→オランダにおける戦い (1940年)参照)。オランダでは、当時、3つのスタジオが活動しており、ナチ・ドイツを避けてきた人々によって隆盛を誇っていたが、ウーファに組み込まれた。その後、オランダ映画が撮影されることはなく、施設はウーファのために使用された。オランダの監督の多くが国を去った。ベルギーの映画産業は、著名なドキュメンタリー映画学校があったものの、ノルウェーと同様あまり発展していなかったためナチの食指が伸びることはなく、映画人のほとんどが仕事を続けることができた。 1940年6月22日、フランスが軍事的に敗北し(→ナチス・ドイツのフランス侵攻参照)、コンピエーニュで休戦協定が結ばれると、一部は占領下に置かれ、非占領地域は傀儡国家ヴィシー政権が統治することとなった。ヴィシー政権下のフランスでは、ファシスタ政権下のイタリアをモデルに業界が再編されたが、ニースに本拠地を置く南フランスの映画業界は、ほとんど制限を受けることなく仕事を続けることができた。一方、パリとフランス北部は、ドイツ軍の支配下となった。同地にはドイツのニュース映画や劇映画が氾濫することとなった。1941年初めには、Continental Film(「コンティネンタル・フィルム」)が設立された。ウーファとトービスの子会社でパリ都市圏の全スタジオを所有し、フランス解放までにフランス語による映画を27本制作した。 「フランス映画」も参照 領土拡大の戦争はさらに続き、1941年にはソヴィエト連邦に侵攻した(→独ソ戦参照)。ナチ指導部はソ連の映画制作設備も手中に収めることになった。特にラトビアのリガ、エストニアのレーヴァル(現タリン)、ウクライナのキエフであった。接収を受けた施設は、1941年11月に設立されたZentralfilmgesellschaft Ost(仮訳「東部中央映画会社」)の所有に移管され、占領下のソ連地区でベルリンからの指令で映画プロパガンダが組織された。 「ロシア映画」も参照
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