映画産業への進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 07:38 UTC 版)
「楽天地 (大阪)」の記事における「映画産業への進出」の解説
山川吉太郎はレジャーセンターが一段落したところで事業意欲を失い、新たな事業を求める。同年、上映用の映画を制作するために東京の小林喜三郎の「常盤商会」と共同して「天然色活動写真株式会社(天活)」を設立し、山川は大阪支社長に納まった。1916年(大正5年)には大阪における映画撮影所を現在の東大阪市河内小阪駅付近に建設している。1920年(大正9年)天活解体後は「帝国キネマ演芸株式会社」を創設し、1924年には、沢蘭子主演の悲恋物『籠の鳥』が爆発的な大ヒットとなった。その資金を元手に1928年(昭和3年)、現在の東大阪市長瀬駅近くの長瀬川河畔に「東洋のハリウッド」とよばれた巨大な「長瀬撮影所」を新設した。しかし、撮影スタジオやトーキー用の機材などにかかる巨額投資、日活や松竹など現代劇の大会社の関東大震災からの復興で、資金力に乏しい帝キネは窮地に陥り、1929年以後は松竹と提携するようになった。1930年(昭和5年)にはトーキー映画の『何が彼女をさうさせたか』が大ヒットするが、同年9月、スタジオはわずか2年で焼失した。
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