ダンツィヒ帰属問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:37 UTC 版)
「第二次世界大戦の背景」の記事における「ダンツィヒ帰属問題」の解説
ヒトラーはベルサイユ体制の不当項目解消の最終目的であったダンツィヒを含めた、ポーランド回廊を要求した。当時のダンツィヒは人口の約95%をドイツ人が占め、現地ドイツ人は民族自決の原則に従ってドイツへの帰属を求めていた。このダンツィヒをめぐる外交にはドイツ・イギリス・フランスのほかローマ法王や、ムッソリーニ、ベルギー国王などが参加しており最後にはアメリカのルーズベルトも参加していた。ヒトラーの要求は各国で合理的な正当性のある要求だと認められていた、ポーランド外相のヨゼフ・ベックらポーランド政府要人は一応要求に一定の理解を示していて、1939年4月の囲い込み政策以前はポーランド回廊に関する実質的合意に至っていたとリッペントロップ外相は1939年8月14日に列国議会同盟会議に参加していた、アメリカ代表のハミルトン・フィッシュ3世との会談で述べていた。しかし、この囲い込み政策によってポーランド軍部が強硬姿勢に転じ、今までの合意はうやむやにされた。このイギリスの行動にヒトラーは態度を一転し、今まで交渉してきた、イギリスとの約束(ドイツは陸軍を30万を条件とし、海軍力も英国の3分の1にするなどの約束)をうやむやにし、急激にイギリスを強く嫌悪し、敵視した。囲い込み政策に政策を一転させた理由は多々あるが、アメリカの対英仏軍事支援の条約が関係していると考えられている。囲い込み政策が施行されるとポーランドは軍事的支援の確約が得られ、さらに勢いがついていった。ヒトラーは遂に耐え切れず、ソ連との不可侵条約である独ソ不可侵条約が結ばれた。この中の秘密規定にはソ連とポーランドの戦争においてソ連が失った地のソ連復帰が約束されていた。その後、一度、動員を宣言したものの、ムッソリーニを筆頭にした抗議によって一度は動員令を解除した。そしてダンツィヒ問題に関してもう一度話し合うように勧められ交渉が再開したが、英仏の支援が確約されていたポーランドはその約束を唯一の頼みの綱としてドイツとの直接交渉を行わなかった。1939年9月1日ヒトラーはポーランドに対し宣戦布告を行った。9月3日英仏両国もドイツへ宣戦を布告、ここに第二次世界大戦が勃発した。
※この「ダンツィヒ帰属問題」の解説は、「第二次世界大戦の背景」の解説の一部です。
「ダンツィヒ帰属問題」を含む「第二次世界大戦の背景」の記事については、「第二次世界大戦の背景」の概要を参照ください。
- ダンツィヒ帰属問題のページへのリンク