ダンツィヒの重要性
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「ダンツィヒ攻囲戦 (1807年)」の記事における「ダンツィヒの重要性」の解説
ダンツィヒは、戦略的に重要な位置を占めていた。60,000名の住民を擁し、高度に要塞化されたヴィスワ川河口の重要な港であったのみならず、フランス軍の東進に伴いその背後に位置するプロイセン領として、フランス軍左翼にとって直接的な脅威となったのである。また連合軍の潜在的な揚陸地点でもあり、背後に戦線が形成されればフランス軍を脅かしかねなかった。さらにダンツィヒの北はヴィスワ川、南と東は湿地に守られており、西からしか接近できない攻め難い町でもあった。 これに加えて市内には火薬、穀物、オー・ド・ヴィー(英語版)といった物資が豊富にあり、東部で堅実な戦役を計画していた大陸軍はそれらに大きな関心を寄せていたのである。1807年2月18日付の書簡で、ナポレオンはルフェーヴル元帥に次のように書き送っている。 貴官の栄光はダンツィヒの奪取と結びついている。そこへ向かわれよ。
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