大法官裁判所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/01 08:02 UTC 版)
「ペン=カルバート境界紛争」の記事における「大法官裁判所」の解説
請願を法廷に提出後、両者およびその代理人はフィラデルフィア、ニューキャッスル、そしてメリーランド全域で証拠の収集を始めた。両者の請願は1750年には大法院に上げられた。植民地での権利関係書類や数十年にわたる様々な当事者による合意書などを見直し、両者の意見を聴取した後の1750年5月15日、大法官ハードウィック伯爵フィリップ・ヨークは1732年合意を順守せよとの結論を下した。これに基づいて新たに委員会を組織し、境界線画定の監視を行わせることとし、さらに初めの委員会で停止していた議論にも結論を下し、12マイル円はニューキャッスルを中心とした半径12マイルの円とすること、およびヘンロペン岬ではなくフェンウィック島を通る緯線を南側境界とすることとした。 この事件の決定は、 ペンvボルチモアLord (1750)1 Ves Sen 444 に基づいて報告されており、それ自体が重要な判例となり、モザンビークの規則に対する司法の例外となっている。オックスフォード大学のエイドリアン・ブリッグス教授は、判例が十分に重要であり、事件自体を参照する同様の同名の規則があるべきだと主張した。 新しい委員会には、ウィリアム・アレン、ベンジャミン・チュー、トーマス・ホプキンソン、ペンシルベニアおよびデラウェア州のリチャード・ピーターズ牧師、ライヴ・ホルト、テンチ・フランシス、およびメリーランド州のベネディクト・カルバート、ベンジャミン・タスカー・ジュニア、ジョージ・プラター、ダニエル・デュラニー・シニア。彼らは、1750年11月14日に、ニューキャッスルコートハウスの会議室で最初の会議を開催した。委員は、コートハウスをニューキャッスルの「中心」と見なすべきであり、12マイルサークルは建物の上部のキューポラを中心にすべきだと提案した。 委員会は続いて測量チーム(ペンシルベニア州のジョンルーケンスとアーキバルドマククリーン、メリーランド州のジョンリッグスとトーマスガーネットから成る)を雇用し、手始めにフェンウィック島を通り半島を南北に分割する線を地図上に描画する作業を行った。この測量線を半島横断線と呼ぶ。1番目の標識はこの線の東端部にあたる地点に置かれた。1751年6月にはこの半島横断線の測量作業は完了した。 しかし、10月に同じニューキャッスルで行われた会合では半島横断線の西端部はチェサピーク湾なのかスロータークリークなのかで紛糾した。西端部を決定できないと、中点も決定できないため、測量は終了できない。また、12マイル円に関しても、山や谷などを地形なりで12マイルなのか(この場合円はやや小さくなるのでボルチモア男爵側が得をする)、水平距離で12マイルなのか(この場合はペンが得をする)でも合意できなかった。委員会は英国のハードウィック伯爵に再び照会を行い、半島横断線西端はチェサピーク湾、12マイル円中心は委員会の結論通り、12マイルの距離は水平距離、との決定をうけた。
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