裁判所・議会・国王の折衝に奔走
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「フランシス・ベーコン (哲学者)」の記事における「裁判所・議会・国王の折衝に奔走」の解説
法務次官・法務長官在任中は司法界で政敵コークと裁判所の管轄を争い、国王大権と裁判所の権限を巡って対立し続けた。きっかけは1606年に民事高等裁判所首席裁判官(英語版)へ転身してからのコークの姿勢変化にあり、コモン・ローを擁護しそれを扱う裁判所(民事高等裁判所(英語版)、王座裁判所(英語版)、財務府裁判所(英語版))の権限を拡大、他の裁判所や王権との対立を引き起こしたのである。背景には北部評議会(英語版)などの裁判所新設、大法官裁判所(英語版)などのエクイティ(衡平法)の裁判所が権限を拡大、これらを通じて国王大権が伸長しコモン・ロー裁判所との争いが生じた事情があった。しかし国王ジェームズ1世とその側近になっていたベーコンからすれば、コークの方がコモン・ローを盾に取った越権行為をしていることになり、コークはベーコンおよびジェームズ1世との対立が避けられなくなった。 コークのこうした動きに対しベーコンがその対処に当たり、1608年にコモン・ロー裁判所とウェールズの裁判所が管轄争いを起こすと、自分達の権利を声高に主張するコモン・ロー裁判所を非難、ベーコンの影響を受けたジェームズ1世が1610年に各裁判所へそれぞれの管轄を保持することと自重を呼びかけ、事態の収拾を図った。また政界でも国王の助言者として国王大権と議会の均衡を保つべく奔走、財政再建策としてソールズベリー伯が1610年に提案した大契約が元で、国王の課税権を巡って起こった論争を差し止めたジェームズ1世を擁護、大契約に反対した。一方で1612年にジェームズ1世へ向けて、議会が財政を支え国民と王を結び付けている議会の存在意義を強調して配慮を呼びかけている。 同年、大契約成立に失敗し財政再建出来なかったソールズベリー伯が死亡、ベーコンは彼が所持していたポストを狙い国王に自薦したが実現しなかった。一方、議会対策として次の議会召集を進言、そこで国王と議会の関係修復を図り、ジェームズ1世に議会との協調を呼びかけた議会も1614年4月に召集されながら、親スペイン・カトリック派のノーサンプトン伯爵ヘンリー・ハワードらハワード家と、反スペイン・プロテスタント派のペンブルック伯ウィリアム・ハーバート、カンタベリー大主教ジョージ・アボット(英語版)らの派閥抗争が原因でわずか2ヶ月後の6月に解散、7年後の1621年まで召集されなかったため、司法界で再びコークとの対立が発生することになった。 1613年、王座裁判所首席裁判官(英語版)トマス・フレミング(英語版)の死亡でコークは民事高等裁判所から王座裁判所へ異動となったが、何とかコークを翻意させようと彼とジェームズ1世との接近を計画、加えて実入りの良くない王座裁判所への異動で懲罰を対外的に印象付けることも図ったベーコンがジェームズ1世に進言した結果だった。なお、コークの異動で玉突き人事が行われ、民事高等裁判所首席裁判官にはコークの後任の法務長官ヘンリー・ホバート(英語版)が、法務長官にはベーコンが就任した。 しかし、王座裁判所首席裁判官になってもコークは態度を変えず、ジェームズ1世・ベーコンとの対立を継続していった。サマセット伯ロバート・カーの殺人事件裁判ではコークとベーコンは協力したが、裁判官は国王の擁護者と考えるベーコンと国王と人民の間の調停者と考えるコークの思想は相容れず、ジェームズ1世の裁判官への干渉に対する抗議も重なり、大法官でベーコンと連携したエジャートンとも対立を深めていった。裁判所の管轄争いも国王大権と裁判所の対立と問題が拡大、1616年にジェームズ1世によりコークは王座裁判所首席裁判官を罷免された。罷免に際し、ベーコンはコークを徹底的に非難し、国王大権や各裁判所と衝突した事例を持ち出してコークへの個人攻撃にまでおよび、かつてのエセックス伯を彷彿とさせる民衆の支持を背景にした政治手法を厳しく批判している。 コークを司法界から排除した後は出世を重ね、上述の通り1616年に枢密顧問官、1617年に国璽尚書、1618年に大法官となり、ヴェルラム男爵叙任で貴族に列せられ、1621年にセント・オールバンズ子爵に昇叙された。出世に伴い多忙を極め、大法官府の残務処理や裁判でウォルター・ローリー(1618年)やサフォーク伯トマス・ハワード(1619年)など政治犯を断罪、治安判事や巡回裁判判事を通した地方の統制、各分野に精通した委員会の設立提案(現代における省庁に相当する)など司法界と政界にまたがる多彩な活動を展開していった。この出世には1615年から交際していたジェームズ1世の寵臣・バッキンガム侯(後に公爵)ジョージ・ヴィリアーズの後ろ盾に依る所が大きかった。 バッキンガム侯への助言という形で1618年にイングランドの政治・社会全般を広範囲に分析・解説した書簡を執筆した。1616年にも書いた書簡を大幅に増補したこの文書でバッキンガム侯に宮廷腐敗の一掃、国王と枢密院中心の政治を行うこと、枢密顧問官の登用に公平な人事を行うことを勧めた。内容は多岐に渡り、宗教・法律・議会・枢密院・外交・戦争・経済・植民・宮廷のそれぞれの詳しい特徴・問題点・解決策を挙げて、バッキンガム侯を国政運営にふさわしい政治家に養成しようとした。しかしバッキンガム侯はベーコンの政治マニュアルとも言うべき書簡の内容を上手く呑み込めず派閥形成に走り、身内贔屓で役職がバッキンガム派に独占される事態となり、それに不満を抱いた有力者が議会でバッキンガム侯ら政府と対立、ベーコンの目論見は失敗した。そしてバッキンガム派に属するベーコンも議会と政府の対立に巻き込まれていった。 1620年、一時期だがトマス・ホッブズがベーコンの秘書を務めたことがある。
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